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信じるか信じないか

久々に都心に出て来た。

車窓から流れる景色にはメンタルクリニックの看板が目につく。

あまり都心には来ないのだが、昔とは人波が違う。

至るところに外国人がいて、僕の学生時代とは街の景色も電車内の風景もまるで違う。

電車内に中吊り広告がほとんどない。

それだけ不景気ということなのだろう。

メンタルクリニックが乱立しているのも、この三十年間、この国が経済的に沈滞し、貧すれば鈍すで、誰もが悩み苦しんで来た悲しい結果なのだろう。

ストレスと我欲と自分を守るためなのか、まるで人情どころか心のないロボットのような人間ばかりになった。

他国と違い人の温かさが売りものだったこの国も少なくとも都心部では見る影もなくなった。

資本主義とは欲望を肥大させるだけで、礼節を失い、結果として人間を獣に帰するシステムであったのかも知れない。

暢気な左翼であった僕の学生時代は四十年近く前のことなので変わらないほうが寧ろ不思議なのだろう。

僕の学生時代はバブルの頃なので、まだ夢や希望に溢れていた時代であり、トレンディドラマなどか流行っていた。

昔から恐ろしく馬鹿だった僕は東京ラブストーリーなどにも憧れていたものだが、社会に出ると現実はそんなに甘いものではなかった。

僕は捻くれ者で人に頭を下げることはあっても権威には頭は下げたくないという社会不適合者であり、何のために生まれて来て、何のために生きて、何のために死んで行くのかという懐かしくも美しい昭和の堅苦しい考え方をするかなり気難しい人間でもあったので、せっかく家族を持ったなら誠実な人間を社会に残したいと考えて子育てをしていたように思う。

積極的に他人に迷惑を掛けさえしなければ消極的には他人に迷惑を掛けても仕方がないとも考えていたし、そういう意固地な性格もあってか、女性には正義感というものがないと語っていた哲学者の言葉を裏付けるかのような我が家の女性人の支えてください、与えてください、守ってください、でも対等で平等です、という一方的な価値観の前に男と女のあいだには確かに深くて暗い河が存在するのだと確信した。

また事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだが、最近の世の中は作り物の世界を超えていて、とても創作物のドラマを見る気にはならなかった。

それでも、ふとテレビを点けるとミス・ターゲットというドラマの最終回が流れていた。

久々に心が揺さぶられた。

長く生きてきて自分も含めて、人がそれほど美しい存在でもなく、人に裏切られることも少なくなく、信じられるものがあまり無くなって来ていて、人を信じることを諦めることで自分の弱い心を守ってきた側面もあるのだけれど、それでも人には夢と希望がなければ毎日、生きていて楽しいはずもなく、自分を支えて行くことができないことも事実である。

だとするなら、現実の人間の本質が善であろうが悪であろうが、何かや誰かを信じて生きていく心の状態と姿勢の方が自分の心の健康の維持のためには大切なのだと今さらながら思う。

信じるという前提の上に疑うという否定感情が存在するなら、まずは信じていなければ何もありはしない。

今さら宗教を始める気などさらさら無いが、宗教とはそのためにあるのかも知れない。

人を信じて裏切られることを恐れて、人を信じることを止めても、自分にとって良いことなどあるはずもない。

現代人に通底する人間不信も救えるものがあるとすれば自分の中に自分だけの信じられるものを築き続ける行為くらいなのかも知れない。

他人に押し付けたり強要したりさえしなければ何を信じていようとも取り敢えずこの国では自由だ。

人は変わりゆく生き物であり、世の中に変わらぬものなどないのだとすれば、人と人との関係に終わりが来るのも、また自然なことであり、いちいちへこたれることなく、また人を信じて生きていくほうが幸せなのだろう。

信じた人間が裏切らないはずと信じるのも自分の都合であり、世の中に絶対というものがないのだとすれば、その刹那の記憶を楽しむべきで、また誰かや何かを信じていれば、きっと良い人にも巡り会うに違いない。

ビートたけしも語っていたが、現代では他人に期待しないで生きることが肝要なのであり、それでも残念ながら人は何かを信じていなければ生きてはいけない悲しい生き物なのだとつくづく感じている。




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