残暑のすき焼き
深夜23時。
学校に電話をかけてきたのは、保護者だった。
こんな理不尽な扱いを受けたとき――。
僕はあの『残暑のすき焼き』を思い出すことにしている。
教師1年目の頃の話。
説明会で、
と聞いていたが、いきなり中学2年生の担任を任された。
朝5時半に職員室に入り、授業で使うプリントの準備をする。
7時になると朝練習の時間だ。柔道着に着替え、生徒と共に汗を流す。
急いでスーツに着替え直したら、生徒を出迎えるために教室へ向かう。
日中は授業が中心だ。授業の合間に宿題や日記を確認し、放課後はまた部活動。
20時前後から翌日の授業の構想を練る。
中学2年生といえばやんちゃ盛りで、22時を過ぎてから万引きや家出の対応に追われることもあった。
週3日以上は午前様だ。
保健室のベッドを拝借して、泊まり込むこともある。
実家を離れ、一人でアパートに住んでいたので、帰っても帰らなくても大差ない。
車を運転すると「居眠り運転」を起こしそうだったから、という恐れもあった。
給食の時間も気が抜けなかった。
まず、当番が時間どおりに配膳できるか見届ける。食事中は生徒と会話できる楽しい時間でもあったが、偏食指導もしなければならない。最後に片付けの指導があり、自分が給食を完食できたことは少なかった。
昼食がそういう様子だったので、部活動が終わる18時過ぎになると腹が減ってくる。
大学時代に一人暮らしをしていたので、パスタやハンバーグなどは作れるが、時間も気力もない。カップラーメンを買い置きし、とりあえずは食欲を満たしていた。
9月末の体育祭が終わったころ、アパートの玄関でふらつき、倒れた。
その年はとりわけ残暑が厳しく、僕の体力はほしいままに奪われていたのだろう。
病院で診てもらうと、過労と栄養不足だと言われた。母に電話して状況を話す。
母の行動は早かった。
母とは、二人で買い物に行くほどの仲である。
だが、普段は「心配しないで。元気にやっているから」と伝えてあった。
アパートと実家は車で2時間もかかるからだ。
部屋に入ってくると、母は両手にぶら下げていた買い物袋を台所の隅に置くなり、てきぱきと掃除機をかけた。
部屋をきれいにすると、買い物袋から「飛騨牛」のシールが張ってある食品トレーを得意げに見せつけてくる。
「飛騨牛」とは岐阜が誇るブランド牛で、我が家では正月しか食べないものだ。
他にも白菜、ねぎ、しいたけ、豆腐といった材料を次々とテーブルに並べる。
それらを使い、二畳ほどの狭い台所で何かを手際よく作ってくれたのは――。
すき焼きだった。
鍋がくつくつと煮え、準備が整い、二人で手を合わせた。
(うわ、うんまぁ・・・・・・)
久しぶりの母の手料理。しかも上等な肉を使っている。
おいしくて当然だ。
母は遠慮するな、と言いながら肉の塊を器に入れてくる。
と玉子のパックを袋から取り出した。
すき焼きには、生玉子をつける――子供の頃から好きでたまらなかった。
熱を帯びた飛騨牛を玉子に浸し、少し冷ます。それを口に運び、白飯も続けてかきこむ。口を動かすたびに、肉の旨味と白米が呼応し、たとえようもない幸せな気持ちになった。
白ごはんは、三杯食べた。
満足に食事していないことを見抜かれ、叱責された。
この日以来、母はほとんど毎週来た。家からおかずを持ってくることもあれば、私のアパートで作ってくれたこともあった。
ブリ大根を食べ、肉よりうまい魚があるのだと改めて驚いた。
肉じゃがは、汁を捨てるのすら惜しみ、白ごはんにかけて食べた。健康面に気を遣ってか、野菜をたっぷりと使った煮物をよく作ってくれた。
子どものころは気が付かなかったが、母は和食が得意であった。大人になったからだろう、和食のおいしさがよくわかる。
大根、ねぎ、ごぼう、カボチャなど、何でもない野菜がご馳走に変わる。まるで魔法だ。だし、砂糖、醤油、酒、みりん。これらの組み合わせで作られる家庭料理のなんとうまいことか。
私も母に習って作るのだが「砂糖は、だいたいこれくらい」という感覚的な教え方だった。累積した経験があるからこそできるのだろう。繰り返し作っても、同じような味にはならなかった。
仕事は相変わらず忙しかった。
睡眠時間が3時間の日が続いたときは、もう辞めようかな、とも思った。
だが、夕飯を食べると力が沸いた。
母が作る和食には温かみというのか、親しみというのか、表現しがたい不思議な力があった。
その後、職場で出会った人と結婚し、一人暮らしは終わる。
母に夕食を作ってもらう生活は、約一年半続いた。
出版を目指しています! 夢の実現のために、いただいたお金は、良記事を書くための書籍の購入に充てます😆😆