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ユージーン・スタジオ After the rainbowいま現在のわたし・わたしたちをリフレクションする美術

東京都現代美術館で開催中の表題の展覧会について、今までに経験したことのない2つの感覚を覚えたので、なるべく言語化して残しておこうと思う。
(展覧会詳細についてはこちら

1つ目。
私は今まで「現代美術」というものを鑑賞するとき、「今の」「私の」美術だと感じたことが正直なかったように思う。
「中世」「近代」「現代」・・・と続く歴史の中の「現代」というものを、「今」の立場から振り返って見ているような感覚があり、それは「私」とは距離のあるものに思えた。
ダミアン・ハーストを観ても、村上隆を観ても、自分の中にないものを鑑賞するという感覚を持っていた。あるいは過去の中に共感を見つける作業というか。
そんな私だが、ユージーン展を鑑賞したときに、初めてヒリヒリと切実に「今の」「私の」感覚に響いてくる感じがあった。
自分と同じく平成に、日本に生まれたアーティストだからなのか、この感覚は私にとって新鮮なものだった。

2つ目。
私はこの展覧会に2回行っている。
最初は11月、展覧会が始まって間もない頃に、前情報なしで美術館に訪れたのだが、1つだけ入れない展示室があった。
「想像 man」という作品の展示室なのだが、壁面に掲示された作家の言葉には「この作品は展覧会の裏側を一手に担う」とあり、重要な作品なのだろうと気になった。
ここはその日ごとに整理券を配布していて、1人15分ほどの時間枠が設けられているので、展覧会期間中も限られた人しか鑑賞ができない。
2月の会期終了が迫った頃に思い出し、朝一番で再訪して整理券を手に入れ、鑑賞した。
ここで私にとって新鮮だったのは、「想像 man」を体験した前後で、その他の作品の印象が全く違って見えたことだ。



実際に各展示作品を辿りながら、感じたことを残しておきたい。

まず地下の展示室に下りて最初に目にするのが真っ白なキャンバス「White painting」。
世界の様々な都市の路上で、このキャンバスに道行く人がキスをしていったという作品。
数年前はそんな作品が普通に作れる世界だったことを、コロナ禍の今、不思議に思う。
そして、この作品制作によってしか存在しない、国境を超えた偶発的な「愛」のコミュニティについて考える。

「家族のための」と題された小さなWhite paintingには、ある家族のキスが残されているのだが、「家族は増える時もあるし、減る時もある」という作家の言葉が印象的だった。
私たちの目には見えないけれど、もし人のDNAが見える高度な視力を持った未来人なら、これらの白いキャンバスにはどんな抽象画が描かれているのだろう。
そしてそんな未来人が登場する数千年後には、この作品は「愛」のもとに偶然に集まった人々の墓標のように見えるだろう。共同墓地。
帰ってから図録を見たら、見開きに並ぶWhite paintingの四角いキャンバスの写真が、航空写真で見るような綺麗に整理された街の区画のようにも感じた。

「海庭」は吹き抜けの空間を大胆に使ったインスタレーション。
11月に訪れたときは午後遅い時間だったので、展示室を一周した後には日が暮れて、この作品の色や質感がガラッと変わっていた。それだけ一番「自然」に近い作品と言える。
ここが海の庭であれば、私が立っている通路は縁側なのだろうか。
人工的な縁側から、遥かに続く海を眺めていると、目の前の波の穏やかさと共に、災害の恐怖についても思い起こされる。
私たちを優しく受け入れてくれる一方、破壊をもたらす存在でもある海。
そんな海に囲まれる日本に生きていることに思いを巡らせる。

海を抜けると、びっくりするくらい明るい展示室に出る。
大型の油彩作品「Rainbow painting」には「群像のポートレート」という副題がついている。
点々とした筆致は全て少しずつ色が違うので、近くで見ると点描としてはっきりと見えるのだが、離れてみるとぼんやりとしたグラデーションの1枚の絵に見える。
近づいたり離れたりして鑑賞していると、全体が人の波のように蠢いて見える。
私は離れて見る淡い微かなグラデーションを美しいと感じたが、群像というものはこんなに美しくないのではないか。少し皮肉めいた感情も芽生えた。
この筆致のように、自分と同じ色を感じながらもやはり別の存在である他者、完璧に分かり合えないもどかしさ、SNSでの対立する意見・・・が溢れている世界。
それでも人間は、世界はこんなに美しい、と言えるだろうか。展覧会のメッセージである「あらゆることは共にある:共生」という言葉に立ち戻る。全く違う感覚をもつものが、そのままそこに在ること。悲しかったり裏切られたと思ったり怒ったりするのは、自分と別の存在を、別のものとして尊重して、そのまま受け入れることが出来ていないからではないか。

隣の展示室に掲示される「私には存在するだけで光と影がある」は、日光による退色で生まれる抽象画だ。抽象画というか、光を使ったその制作方法は写真的とも言えるかもしれない。
紙で作った角柱の片側を太陽の下に晒しておくと、塗布したインクが退色して薄くなる。逆に影の部分はインクの色がそのまま鮮やかに残る。
支持体である紙の構造物そのものの光と影をそのまま写し取ることで、「存在するだけで光と影が生まれる」、それはきっと、「人」のことだけでない。どんな「物事」も見方を変えれば光であり、影である。それをそのまま受け入れること。
この抽象画もRainbow paintingと同様、美しい表現に昇華されているのだが、これは作家の人間観なのだろうか。「綺麗事」ととる人もいるかもしれない。

奥に見える「善悪の荒野」はキューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に登場する「AIが用意した人間の理想の部屋」のセットを作り、燃やして破壊したものをガラスケースに入れて展示されている作品だ。
この映画が作られた1968年からみると2001年は「未来」であったけれど、2022年を生きる私たちにとっては「過去」である。
2001年以降、私たちはどんな時代を通過してきたか。戦争があり、テロがあり、災害があり、この作品のような瓦礫の光景を何度も目にしてきた。
しかし私たちは大半の人が直接現場を目の当たりにした訳ではなく、テレビやPCの画面を通してその悲惨さに触れている。なんとなくガラスケースが液晶画面のようにも感じられる。実際に起こっていることなのに、どこか遠く映画の中のように感じられる感覚。空虚だ。しかしその空虚さは私にとってすごくリアリティのあるものだ。(そんな風に私が感じている横で作品を背景にiphoneで自撮りしている人がいる構図もまた面白い・・・)
だけれどもまた展覧会テーマの「あらゆることは共にある:共生」に立ち返ると、「破壊」があれば「再生」がある。
手前の部屋に展示してあった「物語の整地」は、ステンドグラスを粉々にして1つ1つ何万個ものガラスの破片を綺麗に貼り直した作品だが、コンクリートで舗装された復興後の道のようでもある。
展覧会英題のAfter the rainbowは、虹の表す「多様性の今」の時代のその後、私たちは何を想像して創造していく?という投げかけにも考えられる。



この後にも作品があるのだが、「想像 man」を体験したときのことを記しておく。
まず、前室で荷物を置いて説明を受けるのだが、整理券をもらっておきながら「正直無理かも・・・」と思った。それくらい真っ暗で、本能的に恐怖を感じてしまった。
それでも3重のカーテンをめくって、両手を前に突き出し、ゆっくりと足を進める。
奥に制作中も搬入中も、真っ暗闇で作者も誰も見ずに出来上がった人の彫像があるのだが、得体のしれないものに手が触れると思うと泣きそうになった。
しばらくすると右手に像が触れた。ゆっくりと撫でてみる。意外と小さい。
私の「想像」では自分と同じくらいのサイズで、もっとのっぺりと抽象的なかたちをしているものだと思っていたが、台の上に小さな人が立っているようだ。
手を見つけて握ると、少しほっとした。そのまま両手で腕の部分を上に撫でていき、肩から首を見つけた。そして頬を両手で包み込んだときに、突然ドバッと涙が出てしまった。
嬉しいとか悲しいとか怖いとか、感情を表す言葉がついてこないままに突然涙が出たので困惑したが、「死んでる・・・」と思ったのは覚えている。私には即身仏のように感じた。
別の日に体験した友人は「母の愛情に触れたような安堵感があった」と話していたし、ネットで見つけた感想には「官能的だった」という言葉もあった。
しかし私にとってこの作品は、圧倒的な「死」の感覚に触れたものだった。
どうして涙が出たのかは、いまだに言語化出来ずにいる。

真っ暗の部屋から出た後、2回目に見た「Gold rain」は1回目と違ってよりキラキラと輝いて見えた。1回目は線香花火を見ているような、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の腐海の底に舞い落ちる砂を見ているような、淡々とした気持ちがあった。
2回目は「想像 man」の「死」の衝撃が強かったせいか、生命が誕生するときってこんな風に偶然に分子が混ざって生まれるのだろうか、と生きることの奇跡のようなものを感じた。

綺麗事ともとれる希望的な作品群についても、重い「死」の感覚を体験した後では、
私には「それでもやはり希望を持って生きる」というメッセージに感じられた。

最後の部屋は映像作品「Our dreams」で、全く関係のない2人がドビュッシーの「夢想」を空弾きで連弾するという作品だ。
不確かで偶発的でままならない私たちの存在。それでも「夢」を奏でるという1点で繋がっている2人を眺めていると、完全に混ざり合うことはできない他者とも、共有できることがあることの尊さを感じていた。

海があって雨が降り虹がかかり、自然がある。その内側に死や宗教、崇拝がある。
このような展覧会の構成自体が神社のような、建築的な作りにも感じられた。
生と死、自己と他者、人工と自然、過去と未来、そういった二項対立のものが全てそのまま包まれている。
これらの作品はそのままそこにあるのだけれど、「私」の「今」をリフレクションして変化するような感覚がある。きっと人生が進んだら、時代が進んだら、また違った「私」をリフレクションするのだろう。
個人的には一編の小説を読んだような、映画を見たような気持ちになった展覧会だった。

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