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味の素にまつわる手間とコスパと美味しさの形

 憂うことがある。白出汁に味の素とごま油を一足し、レンジでチンんしたら「ほ~ら、美味しい!」。
 近年の料理の風潮は手間とコスパに支配されている。8時間以上の勤労時間に移動時間や睡眠時間、さらに夫婦共働きにもなるとそういう風潮になるのも理解はできる。
 近年のお手軽調味料たちは、料理をおそろしく簡素化した。白出汁、出汁パック、カツオ出汁、これらを同じものとして語るのは個人的にかなりの抵抗があるが、そういう括りとして考えるならば左から手間がかからないものとなろう。
 お好み焼きのソースがある。このようなソースは、てきとうなお野菜を時間をかけて煮込めばたいていそのような味になる。
 それに近い料理は、家庭的な煮物になるだろう。色々な食材を同じ鍋で煮込む、それぞれの食材から出た旨味がごちゃごちゃになった料理。これを最後まで煮込むとソースになることを考えるとソースのような味とも言える。
 最後に、日本料理の炊き合わせがある。各種食材を適切な切付け・火入れ・味付けをして、それぞれを器に盛りつける。
 これらが同じ料理であろうはずもない。全くの別物として見るべきだ。
 しかし、これらは白出汁とカツオ出汁のように同列に語られる。何故ならそこには啓蒙も理解もないからである。今や料理人までもが、作り方や味などどうでもいいかのように「このカツオ出汁は白出汁でも代用できる。」などと軽薄に嘯く。
 知らない味も作り方も、知らないものは知らないのだ。伝える側がそれでよいと言ってしまえば、出来上がるのは何の知能もない赤子だ。

 美味しい料理は手間がかかって面倒くさくてコスパが悪いのだ。料理人(料理研究家は違うよ。)は皆知っているはずだ。しかし決して言わない。綺麗で受けの良い言葉で覆い、今を取り繕う。日本料理など廃れて当然だ(日本料理大好きです!)。

 大嫌いな言葉がある。

”味の好みは人それぞれだから、それでよい。”

 リューターとポリッシャーとサンダー、全て違うものですよね。クラシックとジャズ、ポップスもそうですね。一流の演奏家と素人の音楽を同じには語りません。どちらが上手いかは一目遼前でしょう。しかし、一流の演奏家とその辺の音楽教室の先生くらいになると分からなくなる人も出てくるでしょう。しかし、当然同じではありませんね。
 料理ではそれがあまりにも並列に語られ過ぎる。人々が毎日口にするものだからだろうか、そうであるとしてそう語ってよいとはとても思えない。分からなくても本人が良いと思っていれば何でも良いというのはあまりに短絡に過ぎる。
 味の素も白出汁もあまりに”それだけでよい”ものを与えた。スマホは便利だが、それ以上の学習意欲を人から奪った。

 ここで手の平を返すと、だからと言って白出汁や味の素を否定するわけではない。あくまで料理をする手段の一つであって、時間や味を省略することを理解してそうしているのならば、それは立派な調理であり料理だ。
 ただそういったものを盲目的に啓蒙した未来は、間違いなく美味しい食材も料理も消え去る未来だ。そう書くと、それも悪くないという人が既に大半で、私はこれを1+1で埋めつくされた悍ましい世界だと思うのだが、きっともうそんなことを共有できる人はほぼほぼ存在しない。過程と理解があればこその人間だろう。

 僕たちはいつの間にかマトリックスのカプセルの中にどっぷり浸かりきっている。目覚めるどころか進んで管から栄養を啜る姿は滑稽そのものだ。

*おそらく加筆します。味の素や出汁パックを使う意義について、もう少し書くべきですね。


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