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・努力の始まりは大車輪、必死で坂を登り、坂道を落ちる

 僕たちが必ず通ってきた道、通らされてきた道。
 幼稚園から大学ぐらいまでの過程で、ほとんど誰しもが勉強についていけなくなった経験をしているはずだ。
 算数の1+1で躓いた人もいれば、掛け算でついていけなくなった人もいるだろう。学校の今の学習プログラムでは、ついて行けなくなった瞬間に地獄だ。1+1が分からなければ掛け算は分からないし、微分積分など以ての外だ。そうして分からなくなった問題は、積りに積もって大きな山となり、登るその瞬間にも大きくなり続ける。そうして人は挫折し、理解のできないまま膨大な時間を失うのだ。
(社会人を含めなかったのは、もはや山を登るステージは終わっているからだ。それまで登れた坂道に応じた仕事が割り当てられ、ルーティンでこなす日々の始まり。そこにどれだけの喜びがあろうか。例外除く。)


 逆にその坂道をコツコツ登ってさえいれば、少し難しい局面に出くわしたとしても頂上を目指す道のりから大きく離されずにすむ。そうして頂上、つまり基本と言われることを全て修めた頃には、上り坂であった山道は緩やかに下り坂に切り替わる。下り坂に入ることは素晴らしい。
 今まで血の滲む思いで会得してきた知識や経験は、それを生かしているだけで新たな知識や経験が転がりこんでくる。転がる雪だるまは、もはや勢いを止めず、小さな起伏など気にも留めずにその力を増し続けることになる。

”10年修行しろ、見て盗んで学べ。”

 この言葉は上記を端的に述べたものだろう。しかし、決して優しくはない。山を登る一歩目の後押しも、山を登るための道具も、全てを自分で用意しなければならない。服も、ロープさえ自分で草を編み込んで作らなければいけないほどの苦行だろう。教えられれば知ることはできるだろう、けれども決して理解はできない、真理などからは一番遠くなる。あぁ、現実は何て残酷なのだろう。


 料理をしたことのない人が初めて料理をするときに、最初に目にするのは教科書的な存在であるレシピだろう。もちろんレシピには様々な弊害があるのだがそれはさておき、レシピを見ることは1+1も分からないうちに超弦理論を目の前に突き付けられるかのようなものである(言い過ぎ。)。まだ坂道を登るか登らないかの段階で見せつけられる霞んだ山の頂上は、さぞかし登る人の気持ちを陰鬱に落とし込めるものだろう。そもそも山の頂上自体が砂上の楼閣であるにも関わらずだ...


 少し話は逸れるが、私はゲームやプラモデルを買ったときなど、最初に説明書を読了しなければ一切進めないタイプだ。それなくして、始めること・作ることはありえないと思い込み、それらを積んだこともある(遊んだり、作ったりせずに置いておくこと。)。もちろん、そのせいで何か新しいことを始める最初の一歩に躓いたり、そもそも踏み出せないこともある。そう、山の頂上を見て、やる前から挫折していたのだ。しかし、とある転機をもって私は徐々に変わった(機会があれば、後日。)。悪く言えば、そんな几帳面な自分にだらしなくなった、さらに悪く言えばそんな自分を見限った。
 つまり、間違っているのか正しいのかも全く何も分からないまま、山への第一歩をとりあえず踏み出すことにしたのだ。


 お醤油を考えるとき、薄口と濃口の違いは何なのか。素材の違いや、特徴は何なのか。今レシピと呼ばれるものに使われている使い方は本当に正しいのか。お醤油一つとって見ても、考えることは山と言うほどある。この記事を見ているだけでウンザリしていることだろう。
 しかし、やることは簡単だ。最初はお家のお醤油を舐めてやればよい。それが山を登る最初の一歩になるだろう。次は、適当に別のお醤油を買って味比べでもしてみればよい。そうしてどちらのお醤油の方が美味しいとか、そういった小さな幸せをもって、また次の小さな幸せを探しに行くのだ。
 亀のような歩みになるだろう、たまに止まるのも悪くない。そうして自分を騙し騙し頂上へ歩ませていく。


 人生が続くかぎり、我々は食べ続け小さな幸福を積み重ねるのだ。もはや、学生の頃のように誰かがその歩みを急かしたり無視したりなどしない。
我々は人生の”食”という時間と幸せを大いに堪能する権利を持っている。騙し騙しでも山の頂上へ向かう価値は十分にある。何でも良い(とは言いたくないが、)、料理を始めよう、そして学ぼう。学ぶとも言えない一歩を登っていこう。そしていつかきっと山の頂上へ辿りつき、知らず知らずのうちに坂道を転がり落ちていることだろう。


”美味しいご飯は人を幸せにする。”


 食への坂道を登って幸せになる人が増えることを願って。

 

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