雪山に登る

 こんにちは、 オニです。久しぶりにエッセイを投稿します。

 履歴を確認してみると最後の投稿は5月の末だったから、前の記事から半年以上は間が空いたことになる。
 前にどのような気構えで記事を書いていたかはもう忘れたけれど、今としてはできるだけ読み手のことは意識しないで、つまり手前勝手に、書きたいことだけ書き殴るぐらいのつもりで記事を書きたいと思っている。
 そうはいったところで、もちろん、自分の書いたものが全く人の目に触れない、触れる機会がないのは厭だ。それにもし、心の底からそう思うのならば、こんなものはじめからノートに日記調にでも書いて机の隅に放っておいてしまえばいいのだから、やはり書くからには誰かの目に留まることがあったらいいなと考えていることも間違いないわけだ。
 だからなるべく書きたいことだけ書いて、次いであるかないかわからないレスポンスなんかについては全然に考えることはしないで、でもこれを目に留めた誰かがいたときには、私の思っていることとか、考えたことなんかが少しなりともその人の心に残ってくれるように、丁寧な文章を書くくらいのことは意識しようと思う。

 書きたいテーマなんてものは幾つだってあるのだけれど、いい加減な文章を書くことは嫌いだから、しっかりした調査や研究なんかはしなくても書けるようなこと、つまりはごくプライヴェートな経験のうちから一つ、今回の題材として取り上げようと思う。

 山登りをした。ちゃんとした専用の靴を履いて、服なんかも教本通りにしっかりと整えて、本当の初心者だけれど、ちゃんとした登山。
 11月の頭に始めてから今日までに大体6座くらいの山を登った。数百メートルの低い山も登ったし、高いものでは二千メートルを超えるところまで上がってみた。

 最後に登ったのは今月の上旬だったのだけど、12月にもなるともう標高のある山は雪が積もっているようだ。そんなことも知らないでいきなり雪山登山をするなんてことが素人目に見ても愚かしいだろうことは明らかだし、幸い同行者の誰も無事のうちに済んだからよかったものの、とにかくこれからも登山やってこうと思っているからには、山を登る前に現地の最新の状態を確認すること怠らざるべきというのは、ひとつ大事な教訓として心に留めておかなければなるまい。

 後になれば反省することが沢山あったのだけれど、それでも雪山の明媚なることは目の前にした困難も不安も忘れさせてただ山を登るということをさせる、特殊な興奮作用のようなものをもっていた。
 雪の積もった、とても歩きやすいとは言えない山道もそこの雪が照り返す陽光も、心地よく体を温める。そして息を乱しながら漸く登った頂から見る富士冠る雲、雄々しく連なる南アルプスの山々の険しい形、見下ろせば雲霧の向こうにぼんやりと見えている市街、これらをひとえに、一個の視界のなかで見ることができるのだから、その美しさはまさに筆紙に尽くし難いというものだと思う。

 ものの美しいことを言葉に置き換えることは難しい。美しい音楽は聴いてこそ美しさを感じられるし、美しい絵は観てこそ、風景も同じ、否、風景はその中に立って目で耳で肌で鼻で感じてこそ分かるものか。
 同じように文章の美しさというものもあるけれど、それは自分で読んでこそ頭の中に書かれたものが浮かび上がったり聴こえたりして美しく感じるものだ。ひとから或る楽曲の美しさについて幾ら説得されたって、自分で聴いてみないことには本当の意味では何も感得することはできまい。
 何かが美しいことは自分によってのみでしか決定することできない。カントは美しさについての感覚を趣味判断と言っている。あの山頂から見た景色の美しさは、微視的には私にのみ属するのかもしれない。
 だから美しいものは常々、私たちをその傍元へと駆り立てるのだろうか。

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