早いに越したことはない

 今日日ほど自らの語学学習の経験を悔やんでいる日々はない。

 去ること20年以上前、義務教育の課程のひとつとして一端に文句を垂れながら始めた私の英語の学習は、長きのうちに幾度となく姿を変え形を変え、それでも何かのかたちで現在まで続いている。その甲斐あって日本の社会のなかで働いたり研究したりする程度であれば私は英語の読み書きにそこまでの労苦を要していない。

 だけど問題はいわゆる「第二外国語」である。

 私の人生も随分紆余曲折を経たものだけれど、兎にも角にも今年になって漸く、研究者の出発点ともいえる修士課程に就いたのだ。かくして漸く、本格的な哲学の研究を始めたのだ。そして哲学といっても洋の東西に多々あるが、私の研究領域は西洋の、特に大陸に基盤をもつもののひとつである。西洋の哲学というものが古代のギリシアに始まりローマを経て、近代にはイギリスやフランス、そしてドイツを中心に発展したものであると思うが、これはおおよそ一般的な見解といっていいだろう。
 したがって、ことさら西洋の哲学を研究する上で、現代の多くの論文が執筆されるところの英語を修得する必要性は言わずもがなであるが、それにしてもこの領野におけるフランス語とドイツ語は圧倒的な存在感を示威している。私の研究対象である人物の残した著作や文献はその殆どが英語で書かれたものである。しかしその論証を追う過程で、彼らが引用している人物だったり、また明らかに影響を受けたと考えられるような人物たちの著作だったりが必ずしも英語のみで書かれているとは限らない。むしろ、時代を遡るにつれてフランス語やドイツ語の文献を参照する必要性を感じる頻度は加速度的に増す。(これはまた、さらに時を遡ればラテン語や古典ギリシア語の読解能力の要請を体感するということをも明示している。)

 だから今回のエッセイの結びは至ってシンプルである。もし大学で文系の学部に入ったりして、人生の早い段階で多少でも(特に人文科学系の)学術に興味を覚えた者であれば、講義などを受けたり学習がしやすかったりする環境にあるうちに第二外国語をしっかりと学んでおくことは、まず間違いなく推奨されよう。たとえその時点で将来は研究者になりたいとかといったようなことを考えていなくとも、どんな人間であれ、いつ何どき、何を思い違って人生のレールを踏み外し、研究なんどいったあてもおぼろげな暗渠に入り込んでしまうなんてことは、けっして判ったりはしないものだ。
 そしていざそうなったとき、必要に迫られて漸く外国語の学習をはじめるようなことがあってはまず時間が足らない、つまり研究にかける時間と折り合いがつかない。それに、いわゆる第二言語より先の修得の臨界期として云われているものの実証性はさておき、語学の学習を早く始めることが後になって始めることよりどの点においても優位にあることはやはり誰の目にも明らかだろう。

 語学に限ったことではないが、何事を始めるにも遅すぎるといったことはないものの、やはり機会があれば早いうちに始めておくに全く越したことはないものだ。

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