何も起こらない毎日に、とんでもねぇことが起こってる可能性。感性を磨くってなに?

そんなに毎日違うことを考えていない。似たようなことばかり脳裏をよぎる。1日2食の食事は昼は毎日同じもの食べてる。ウィンナー、目玉焼き、ご飯。本当に毎日同じ。

同じところばかりウロウロしていると、頭がおかしくなってしまう人がいる。単調な日々に得られる刺激が少なく物足りなさを感じてしまうのだろうか。

でも、一見単調に見えても、毎日やっぱり違う。朝の空気の感じとか、同じウィンナー食べてても今日のは焼きがうまくいってるな、とか。そういうちょっとした違い。

些細な違いを、同じと捉えてしまうことは、感性の鈍化である。感性を磨くというと、なんかこう芸術的なスキルとか、美意識を上げるみたいなイメージを持つ人が多い気がするけど、そういうことじゃ無いよな。

些細な違いに目を止める。止め続ける訓練が感性を磨くってことだ。感性が鋭いやつは単調な日々の中に生きていながら、まいにちときめいていたりする。

オレの知り合いにおもしろいオッサンがいる。雑誌に載ってる商品を見ながら、これもっとこうした方がいいよな、とか、なんでこれこのデザインなんだよ、とか、普段のエピソードを話す時も、なんか文句ばっかり言ってる。

でも、話を聞いていると、なるほどなぁって感じることを言っていて、割と感心する。この人を見てて思うのは、感性とは違和感を持つことでもあるなぁと思う。違和感。あー、これちげぇんだよなぁ。とか、いつもとなんか違うな、それに気がつけること。

些細なことに違和感を持てるひとは、無意識に物事をよく観察している。経験や知識に照らし合わせて、なんだよこれ、ってなる。

日々を生きていて、何もない、刺激が無いと、退屈な思いをしている人は、自分を取り巻く世界を見ているようで見ていないのかもしれない。観察できていない。そう考えると、見るという行為は本当に奥が深い。

ありのままをありのままに見ることはとても難しい。オレたちはいつも見たいものだけを見ようとする。歯が痛くなったときに限って、やたら歯医者の看板を発見する。いつも歩いてる路地なのにこれまで気がつかなかったような歯医者の看板。

いや、感性の話をしているのだった。看板じゃなくて。毎日に違和感を持たなくなったとき、それは感性の鈍化を意味する。世界が退屈なのは世界のせいではなく、自分の問題でしかない。

何度も書いてきたけど、意味とか理由とか何かの役に立つとか、そんなこと放っといてありのままに世界を眺めてみる。いつもと違う何かが必ず転がっている。いつも一緒にいる家族が、髪を切ったことにも気がつかないことさえ、あったりする。

それくらい、見ているようで何も見ていなかったりする。自分を退屈なものにしないように、まず見てみる。観察してみる。あれ、なんか違うなと、気がつけるように心がけてみる。違和感を拾い上げたら、その違和感のこともよく観察してみる。自分はどんなことに違和感を持つ人間なのか。それさえ、分かってるようで分かってないから。

退屈しのぎにはちょうどいい。

あ〜、金麦飲みてぇなぁ