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世の中が美しいことばかり見せるから、汚いことを、書くよ。

社会からどう思われるかとか、

そんなん気にしても意味ない立場にいるから、書く(「今現在はそう思ってても、ログ残るんだから将来的に困るよ」とか言われても、別に今そこは気にしてない)。

そして、世間体を気にしながら生きていたら、俺はきっと、エネルギーを失うから、書く(ちょっと違う話だけど、「世間体を気にせずにチャレンジしなよ、気にせず自分を貫きなよ」って言葉とかって、結局”いい人”が”いい人”のために作った綺麗事みたいに聞こえて、嫌いだ。)。

 
 
 
 
 
 
いつからだろうか、

困ったら死ねばいいと思い始めたのは。

別に病んでいる訳でもなく、素直に、俺は、

人生に生きる意味を見出せなくなったら、死ねばいいと思っている。

(あくまで、俺は、俺に対して、そう思っているということ。他人の人生は他人のもんだから、その人の考え方で生きればいいと思うし、こんな考えはタブーだと思うなら、静かにあなたの心の中でそう思えば良いと思う。ただ、読んだ人を傷つけたのならごめんなさい。)

ただまぁしかし、数ヶ月前、飛び降りようと思った時に、

怖くてできなかった訳だから、

果たしてこの思考・哲学が現実化するかどうかはわからんのだが。

どーせヘラヘラ生きてんじゃねぇの、みたいな未来も見えないことはない。だせぇけど。

 
  
 
 
 
 
「我々が人生に何を期待しているかが問題なのではない、

むしろ人生が我々に何を期待しているかが問題なのである。」

ナチスドイツの強制収容所に囚われていたユダヤ人の心理学者、V.E.フランクルの言葉である。

めちゃ好きなんで、よくよく引用するんですが。

 
要は、「人生に意味はないで、自分で作っていくんやで」ってことである(まあ、なんかいろんなニュアンス端折り過ぎではあるが)。

 
希望と絶望、どちらも孕んだ言葉だ。

 
人生の意味は自分で作っていけるという希望を語っているが、

同時に、「自分で意味作らなければあんたの人生に意味なんてないんやで」という残酷な事実を突きつけている。

 
俺は正直、今、

誰にどう貢献したいとか、将来どんな自分になりたいとか、ない。

それゆえ湧いてくるエネルギーは、

「今日ここにいきたい」とか「今日これしたい」とか「今日これ食いたいとか」とか「セックスしたい」とか「ハグしたい(近くに居たい)」とか「ねむい」とか、なんか、そういう近視眼的な、素直な欲求というのか、そーゆーことが中心になっている。

ただでさえ生きる意味のない人生において、

近視眼的な欲求しか生きる意味になっていないということは、

その欲求がどうでもよくなったときや、経済的やら身体的にそれができない状況になった時に、

俺は生きる意味を失う訳だ。

 
長期的にこれから生きていく、

そういう類のミッション感はあんまりなくって、

強いて言えば母より早く死ぬのは申し訳ないから、それだけしないように気をつけよう、みたいな気持ちがあるくらいだ。

 
正直、美味しい酒と飯とレジャーの日銭稼ぎとか以外に、本格的に仕事を再開する気にはなっていないし、

個人で仕事をやるのも、相当気分乗らなきゃやらないだろうし、

いろんな感情を押さえ込んで、社会に適応していく気にはならないし、

自分の感情と内省を大切にできない生活になるのなら、

その生活が終わるタイミングで死んでもいい(と俺は俺に対して思っている)。

 
 
 
 
 
 
面白いことに、

こんなことを考えているこの時がめちゃくちゃ楽しくて、

生命力が湧いてくるのだ。

 
不思議な話だ。

死に近い思考のはずなのに、

それを考えれば考えるほど、今の自分の生命力になっていくこの感覚。

 
人は、ネガティブな話題を考える俺を心配するけれど、

多分、これが俺にとって生きがいなのだと思う。

というか、死ぬとか生きるとか、その辺のことを淡々と考える、

それが俺の通常の思考だ。

小学生の頃から付き合ってきた、ただのルーティンワーク。イレギュラーでもなんでもない。

 
ネガティブに浸って、

悲しんで、

寂しく思って、

「うまくいかない」と嘆いて、

迷い、立ち止まり、絶望する自分、

この時間、最高だ。

 
こんなこと考えるのはタブーだろうか。

でも、黙っていたらこんなことを考えてしまうのだから、

この思考を止めることは、俺の生きがいとか、アイデンティティの一部を失うことになる。

 
だからやめない。

そして素直になろうと思う。

 
タブーと常識で塗り固められた世界で、

肩肘張って生きる人ばかりなのは、

かなしすぎるから、さみしすぎるから。

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