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人格詐称 第一章

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第一章 自分自身の認識


「どんな状況においても、自分を裏切らないと言えますか」
「あなたは清らかだと思っていますか」
「これまでに怒りに任せた行動をとったことはありますか」
「自分を嫌いになったことはありますか」
「愛ってなんですか」
「人生ってなんですか」
「なぜ、あなたは生まれてきたのですか」

 鎌倉の閑静な住宅街にとある洋館があった。ここの主は資産家の一人息子で、今年二十八歳になる宇都美優である。優は、色が白く端正な顔立ちだった。グレーのレザージャケットがお気に入りで何着も持っていた。古くなると、いつもイタリアのトスカーナまで買いに行くくらいだった。あまりブランドにこだわる方ではなく、自分が気に入った服を身に纏うのが好きだった。そんな優だったが、これから先のことに絶望しながら自問自答する毎日を過ごしていたのだった。それも声に出して自分に問いかけているのである。はたから見ると完全に引いてしまう行動だった。

 いろんなことが優の頭の中を駆け巡っていた。いつも答えは出ない、自分にもわからない。一体どうしてしまったのだろうか。こんなはずではなかったのに。両親が事故でなくなるまでは。

 優の両親は、一ヶ月前、高速道路で玉突き事故に巻き込まれ、トラックに挟まれてしまい即死だった。優は一人っ子だった。それまでは何不自由なく育っていた。欲しいおもちゃは、おねだりすれば何でも買ってもらえたし、海外旅行も毎月のように行っていた。それは両親がいたからだと思い知った。広い洋館の中は静かでさびしいものだと両親がいなくなって初めて気づいた。使用人はいるがあまり話しかけることもない。幸いなことに、両親が残してくれた遺産というものはかなりある。何不自由なく生活はできるので、特に仕事を見つける必要もない。保有している何件かのアパートからの家賃収入や投資している株や投資信託からの配当だけでも、年間少なく見ても五千万から一億程度の収入が得られるのだ。庶民からすればなんとも羨ましい限りである。両親が亡くなった後、遺産を管理している弁護士から連絡があり、書類にはサインをした、意味もわからずに。優は今日から一人なんだと自分に言い聞かせていた。家の中を切り盛りするお手伝いや弁護士たちはこれまで通りに出入りしていても、彼は孤独の中にいた。自分を見つめては涙を流す日々ばかりが続いていた。しかし、彼に同情して声をかけてくれる使用人や友達はだれもいなかった。優はそれでいいと思っていた。わずらわしくないからだ。表面だけの同情は欲しいとは思っていなかった。

 両親が亡くなってから、一年という時間が過ぎ、自分の中にもう一人の自分がいることに気づき始めていた。気がつくと、その時もう一人の自分が話しかけてきていた。

「悲しいのは俺も理解できるよ。だって、俺はお前だからな。でも、いつまでもこのままじゃダメだな。そろそろ太陽の光を浴びようぜ。光は闇を照らしてくれるさ。お前の闇を浄化してくると思うぜ」

「ありがとう。そうだな。季節は春になったし。外に出てみるとするか」

 お手伝いさんは、独り言を続けている優を気味悪がって近くに寄ってこようとはしなかった。自分の仕事に没頭しているふりをして、優のことは常に見てみぬふりをしていた。そして、使用人だけで集まった場所では、そのことが井戸端会議のネタになっていたのだ。

「ここのお坊ちゃん、気持ち悪いわね。いつも独りごと言ってるし。しかも、その内容って不思議なのよね。自分で自分に話しかけているんだもの。気味悪くて近寄れないわ。何されるかわからないし。旦那様と奥様がご健在の時にはとっても素直なおぼっちゃまだと思っていたのに。最近は、全く別人よ」

 こんな話で盛り上がっていたが、そのうちの一人で最近この家で働くようになった久住綾は、不思議そうにみんなに質問した。

「あのー、私は先月こちらに来たのでよくわからないのですが、優さんはどこか病気なのですか」

「綾ちゃん、あなたは前の状態を知らないからね。ご両親が亡くなったショックでおかしくなったのよ、坊ちゃんは。それで、毎日独り言を言うようになって。しかもその内容が気味悪いから、みんなそばに行かないのよ。用事がない限りはね。だからあなたもそうしなさい。何かあったら困るし責任取れないから。ね、わかった」

「は、はい。分かりました。気をつけてお仕事します」

「そうよ、それが一番。君子危うきに近寄らずってね。あら、私たちは君子じゃなかったわね。あーはっはっはっ」

 年長者で先代の時からこの洋館で働いている小太りの高岡恵美子という年増のお手伝いさんは自分の言葉で笑っていた。もうこの洋館で三十年以上働いている一番の古参のお手伝いさんだった。優のおむつを変えていたこともあったので、優からすればちょっと煙たい存在でもあった。

 綾はその場を離れていったが、やはり優のことがどこか気になって仕方なかった。

「さっき、ちょっと聞こえてきたけど、優さんは自分を見つめ直しているんじゃないかしら」と内心は思っていたが、優の目の前に立ちはだかる勇気までは持ち合わせていなかったので、心の中で思うだけだった。

 夜もふけて満月が綺麗に輝いている。優は二階のバルコニーにグラスを片手に出てきて、常に置いてある木製の椅子に腰をかけた。そして、持っていたウイスキーの入ったグラスを燻らせながら、その琥珀色の液体を月の灯りにかざしてみていた。少し屈折して輝いているウイスキーの中の月が歪んで見える。優はふと思った。

「人ってこの月と同じなんじゃないかな。直接みた時は丸いと思っていても、何かを通してみると歪んでしまう。人の心もきっと同じなんだ」

 やりきれない気持ちをぶつける場所もなく、優は一気にグラスのウィスキーを飲み干した。テーブルの上にはかわいい訪問客として鈴虫が一匹羽を振動させて鳴いていた。

グラスをバルコニーのテーブルに逆さまにして置いたまま、自分の部屋に戻った。逆さまにしたグラスの中には、鈴虫が囚われていて、どこにも行けずに、リーンリーンと悲しげに泣いていた。誰もいない夜更けのバルコニーなので、グラスを片付けてくれるものもいなかった。

 優は部屋に入り、パジャマに着替えるのもそこそこにベッドに潜り込んだ。なぜか涙が込み上げてきた。「なぜ父さんも母さんも死んでしまったんだよ。もっと一緒にいて楽しい時間を過ごしたかったよ。まだお嫁さんももらってないんだよ。僕はおかしくなりそうだよ」自分にいいかせていたら、どこからか、そのことを否定する言葉が聞こえてきた。

「いつまでも、いつまでも、お前は情けないな。そのまま、ずっと一生生きていくつもりかよ。俺はごめんだぜ。いいことも悪いこともいっぱいやってみたいんだ。お前がメソメソしていたんじゃ、何もできないじゃないか。いい加減、自分の性格に気づけよ」

 そばには誰もいない。しかし、優にははっきりと聞こえている。一体誰だ。優は深呼吸した。「そうか、もう一人の僕だな」そして優は気づいた。

「これからの時間をどう使っていくのかを考えるべき時が来たんだ」

 翌朝、東向きのバルコニーはすでに煌々と温かい朝日がさし込んでいた。優は昨日の鈴虫はどうなったかなとふと思い出し、バルコニーに出てみた。すでに八時を回っていたので、八月後半の日差しは朝でも暑い。テーブルのところに行き、グラスの中を見てみた。そこには、ピクリともしない鈴虫がいた。優は、「命って儚いし弱いものだね」と思った。何かが、心の中で弾けた瞬間だった。優は、人の命も儚いものだと思い、両親のことを思い返し、きっと世の中の人間はみんな同じなんだろうと思っていた。そのことを確認したい衝動がどこからか込み上げてきた。

 どうやら、優の中で長い間眠っていたもう一人の人格が目覚めてしまったようだった。抑えきれない衝動は、優を悪い方へと誘っているようだった。そして、優もそのことを素直に受け止めつつあった。


つづく


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