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第三十話

 木曜の夜。

    運転見合わせになる前にと頑張ったものの、駅の前のタクシーの行列に加わると順番を待っているうちにずぶ濡れになるのが目に見えていたので、傘を挿すのを諦め、猛ダッシュで自宅まで走って帰ったアラフィフは後悔していた。明日の始業のため会社近くのビジホに泊まった若手社員のように、無理して帰らずとも良かったのではないか、と。

 しかしそれは風呂上がりのビールで帳消しになるはずだ。和二郎は仄暗いキッチンのドアをそっと開けると冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、そのままリビングに入ろうとした。すると、皆寝静まっているものと思っていたのに、明かりも付けずに晴三郎がひっそりとソファに座っている。その鬼気迫る様子に和二郎は思わず声を上げそうになるのをグッと堪え、そのまま後退りしてキッチンから廊下へ出た。ため息混じりに振り向くと背後に理紀が立っていた。

「わあ!」

 先刻せっかく飲み込んだ悲鳴が一気に漏れてしまい、和二郎は疲労感に襲われた。

「何でそんなにビックリすんだよ?」

 理紀は和二郎の悲鳴に驚いたようでムッとしている。

「お前こそ何だよ〜まだ寝てなかったのか・・・」

「爽がおかしい。」

「・・・お前〜何かってゆうとサワ、サワって。おとーさんのことも気にしてくれよぅ。」

 和二郎は昨日からの心労を労って欲しくて、息子に駄々をこねてみる。しかし理紀から貰えたのは、擦り切れた心に塩を塗り込むような蔑みの視線だけだった。

「で、爽がどうしたって?」

 理紀の手招きで客間に呼び込まれた和二郎は、畳の上に胡座をかき、缶ビールを開けた。

「あいつ、もう熱もないし気分も悪くないみたいなんだけど・・・。昨日からぶっ続けで眠り込んでる。」

 和二郎は喉を鳴らしてビールを煽った。

「別に爽がちょっとやそっとじゃ起きないのは、おかしいことでもないと思うがな。アレだろ、いつもの気圧病だろ〜。」

 爽はとにかく体力が無い。その為か所構わず寝落ちすることがあった。家族の間でそれは『電池切れ』と揶揄されていて、事実その通り電池が切れるが如く動かなくなり、ある程度充電しないと何をしても全く起きないのである。

 「それがさ、ここ何日かゴタゴタしただろ?薬の残りを数えてみたら、あいつ土曜日から飲んでないんだ。」

 それは爽の常用している薬の副作用なのかも知れない。しかし三日も服用しないでいると反対に強い離脱症状が起こるはずなのだ。

 「今までこんなこと、無かった。」

 理紀は自分の配慮が足りなかったと悔いて唇を噛んだ。

 この責任感が強すぎる息子に、これまで何度も肩の力を抜けと諭してきたが聞き入れてもらえなかった。その度に和二郎は、つくづく親である自分が負うはずの思いを背負わせてしまったなあと申し訳なく思っていた。

「とにかくさ、お前ももう寝ろよ。後は俺が見とくから。」

 和二郎はそう言うと理紀が嫌がると知りつつタバコに火を付けると、理紀は思い詰めた顔のままで微かに頷き二階へ上がって行った。

                  *

 金曜日の早朝、日本列島に到達した台風の影響で天気は大荒れだった。

 通勤通学の時間となれば、人々は足を止められあちこちで途方にくれ、駅の出口付近はごった返していた。運転見合わせが決まると振替輸送のアナウンスはひっきりなしに流れ、学生たちに呼び出されたのか迎えの車がロータリーに列を作る。それでも出勤するサラリーマンたちはタクシー乗り場に長蛇の列を作り、無言で風雨に耐えている。朝の駅はストレスに満ちていた。

 そんな負の意識渦巻く駅の改札に、ひとりの男が降り立った。眉間にクレバスの如き皺を寄せた不機嫌極まりない表情が、彼の苛立ちを物語っている。

 あのタクシーの列には並びたくない、絶対に。しかし迎えの車を呼びたくない。だがしかし靴を濡らしたくない。絶対にだ。

 時々こめかみに走る鈍痛に顔をしかめながら、彼は靴か誇りか天秤にかけ靴を取ったのだった。

『はい、氷川です。』

 スマートフォンから聴き慣れたトーンの声が飛び込んでくる。

「・・・俺だ。」

『どちらの俺様?』

 ムカついて電話を切りそうになったが、まあ喧嘩中の相手だ。これぐらいはわかってたさ。

「すまないが駅まで迎えを頼む。」

『どうしようか・・・連絡なしに3日も家を空けてたこと、キチンと説明してもらえるのかな。』

「俺のせいじゃない。アレだ、台風のせいだ。」

 我ながら訳のわからない言い訳をして後悔していると、それはそれは深く長い溜息が、まるで可視化したモヤのようにスマートフォンから漏れ出てくる幻を見た。

『まあ、お互い大人ですし、いちいち外泊の理由なんか聞かないけど、夕飯が要るかいらないかぐらい連絡出来るんじゃないのかなあ?それに忙しかったんならわかるけど、何?台風のせいって。河が氾濫して岸に取り残されたの?』

「まあそんなもんだ。」

『ああそう、それはご苦労様!』

 面倒臭い。ただ迎えの車を寄越せと頼んだだけでそこまで言われるのか。正一郎は通話が切れたスマートフォンを握りしめ空を仰いだ。そこには今後の展開を予告するような空模様があった。天から地へと視点を落とし、自分の足元、愛用の革靴である三陽山長の勇一郎を見つめた。濡らしたくないという強い想いを振り切って、彼は走り出した。



序〜第三話、はてなブログからの転載です。