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保留缶

昨日、幡野広志さんの本『ラブレター』の出版に合わせて渋谷パルコで開催中の写真展を見てきた。写真家であり一児の父でもある幡野さんは、余命宣告を受けているがん患者でもある。写真はもちろんだが、幡野さんが家族に宛てた、手紙のようなエッセイのような時に遺言のような優しくてブレない言葉がとても良かった。写真展では出版された本に掲載されている写真以外にも、奥様や息子の優くんが撮った写真も見ることができ、自分も家族や親子や人生について思いを馳せたくなる。微笑ましく時々切なく、しかし私の苦手な変な感動や人生訓みたいなものを受け手に押し付けてこない、とても居心地の良い内容だった。

会場の一角には一般の方から募集した「うれしかった手紙」を紹介するコーナーがあり、「手紙って書くのももらうのもいいものだな」とあらためて思った。

展示されている私の見知らぬ誰かが誰かに宛てた嬉しい手紙たちを見ていたら、ある手紙のことを思い出した。それは私が書いたものでも私宛に届いたものでもない、嬉しい類のものではない、本来なら私が読むはずのなかった手紙だ。

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結婚してから分かったことだが、夫はとにかく物を取っておく人だった。物欲が強くしょっちゅうちまちまと買い物をするが、定期的に不要な物を処分しながら回転させている私の物の多さとは違って、夫のそれは何かの家電のコードや大昔のチケットや大量のCDや過去の年賀状などなど、「これほんとに要る?一生要る?」というような物をとにかく捨てずに仕舞い込んでいるのだった。

娘が産まれさらに物が増えた我が家で、そろそろさすがに大人の持ち物を整理しようということになった。当時仕事をせずに家にいた私が日中片付けをし、夫のテリトリーは夜帰宅した時に捨てていいかを確認しながら進めることにした。

その作業中に出てきたお菓子の缶。

中に入っていたのは手紙の束だった。封書の差出人の殆どは、東北にいる義父母からのものだった。誕生日おめでとうと達筆な文字で書かれた葉書も何枚かあった。

何かあればメールや電話が主流で、私は親から手紙をもらったことなどないかもなーなんて思いながら、こういうのは必要かどうかじゃなくて捨てないタイプの人間かどうかだよな、帰ったら聞いてみよう、と思って缶に戻した。

その時、一通の封筒に目が留まった。知らない男性の名前だが見覚えのある苗字。これは夫の元妻の姓だ。

私は人の携帯を無断で見たりしない方だ。見てハッピーになった人の話など聞いたことがない。でも封は開いている。消印の日付からは既にもう5年ほど経過している。私は誘惑に勝てず封筒からそっと手紙を出して広げた。それは彼の離婚した元妻の父からの手紙だった。

手紙の中身は、娘の結婚生活が呆気ないほど短期間で終わってしまったことへの落胆と、仕方のないことだと言いながらもやんわり夫をなじりたい父親の想いが滲んだ内容だった。胸が痛かった。

そして、便箋の最後には「残念ながらもう会う機会はないだろう。しかしながら自分は、あなたの不器用で無口だが穏やかで誠実な人柄が実は結構好きだった」と書かれていた。

勝手に読んでおいてこんなことを言えた立場じゃないが、良い手紙だった。

自分が不幸にしたかもしれない人の父親からの手紙を、夫はどんな気持ちで読んだのだろうか。どんな気持ちで封筒に戻し、捨てることなくこの缶に仕舞ったのだろう。

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私はそっと便箋を封筒に戻し、缶の蓋を閉めた。

読み返すこともないだろうけれど今捨てなくてもいいだろう。とりあえず保留。

長く生きていくこと、誰かと暮らしていくことは、私にとってそんな風に開けずに保留にしておく缶詰を抱え続けていくことに近い気がする。何事も溜め込まず包み隠さずテーブルの上に並べることだけが正義とは思えない。何を言うかと同じくらい、何を言わないでおくかは結構大事じゃないかと思っている。

夫婦であっても親子であっても、その人の人生は多く関わるだけで私のものではない。

昨日の写真展は夫と見に行った。珍しく一緒に行きたいと言ったからだ。帰宅してからTwitterに感想を書いたそうだが、私達はお互いの呟きを見ないようにしているのでどんなことを書いたのかは分からない。

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あの缶はまだ家のどこかにあると思うが、保留にしたあの日以来どこにあるのかもう忘れてしまった。




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