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曖昧さについて

いきなり個人的なことから入るのが申し訳ないですが、わたしはエニアグラムではタイプ1の傾向がもっとも強く、ウィングは1w9です。

つまり自分の理想を語る完璧主義者でありながら、タイプ9の調停者らしく平和を好み、争いを嫌います。自分で言うのもあれですが、わりと穏やかな性格なのではないでしょうか。

しかし自分の中のタイプ1を強く感じるとともに、タイプ9も強く出ると、いつも相反するものを両手に抱えていてアンバランスだなと思うことは少なくはありません。強い理想を持っているのに人とも仲良くしたい、でもわたしはそれができるほど器用ではないのです。

白か黒

わたしは中間を選択することが長い間できず、いつでも答えは白か黒のみ。行動でいえば、やるかやらないか。恋愛でいえば、付き合うか他人か。交友関係なら、仲良くするか全くしないか。その間の悩む時間はできるだけ短くし、選択がいつでも最前であってほしいと思う気持ちが強いのです。(これは今もです)

即断で白か黒か判断する自分のある種、潔い姿は一定の年齢まで自分でもとても好きでした。けれどいつからだったか、選択に対する潔癖さを窮屈に感じるようになり、自分の心は柔軟さを持たず、そして狭いと感じるようになりました。これは完璧主義者の枠から自分を外に連れ出す第一歩だったなといま振り返ればそう思います。

具体的なきっかけでいえばHSPを知ったことなのですが、HSPに関しては改善というか自分なりに意識してかなり楽になってきたのでここでは記述しません。

グレーの選択肢を

この話には確かなファクトはなく、変わったと明言できるのはわたしの感覚でしかありません。なのでわたしの体験は全てなんの根拠もない精神論のように聞こえるかもしれません。しかし完璧を目指しすぎて辛いだとか、いつでも白か黒と答えてしまう性格に疑問をもつだとか、そうしたことはすべて内面を出発点としているので実体を与えるのは難しいなあと感じます。気持ちの問題はいつだってそうです。(主語がでかい…)

わたしが出会った中で大切にしている言葉があります。「曖昧なのも大事だよーー?」と選択の場面や人と接するようなシーンで毎回その言葉を思い返すようにしています。確か、イブニングにて連載中の漫画『少女ファイト』でのひとコマだったはずですが、さらりと書かれたこの言葉が当時のわたしにはすごく刺さりました。

この世界では曖昧さを大事だと考えている人がいて、それならば多分その曖昧さを許してくれる誰かもいるのだろう。空の青さも青だし、モネが作品で使用している青も青だし、ただ濃度の違いをみて「厳密にいえば」と話したくなる気持ちをぐっと堪えて、わたしは青に部類される色たちを青と大雑把に言うことから始めることにしました。

人間関係に関する有名な質問として「どこからが友達?」があると思うのですが、その答えも今や「知り合いはみんな友達」みたいな回答がさらりと出てくるし、「どんな関係?」と聞かれれば「なんか曖昧な関係!」と自分と相手の関係に名前がつかないことを許せています。(それが良い状態か悪い状態かは別として)

まず最初に浮かんでくる「絶対にこうあるべき」の呪いを解いて、今はとても気分が楽だし、完璧主義の傾向も弱くなってきているんじゃないかなあと思います。ふとした時にぐわっと顔を出すときもあるのですが……

薄いスープを飲んでいる

ただ曖昧さをずっとやっていると、ぼやんとした味の薄いスープをずっと飲み続けているような気持ち悪さも確かにあって、要は曖昧さを持ち出す場面の選択がこの先は重要なのだなと思います。

胃が疲れている時はそうした薄いスープが飲みたくなるし、ちょうど良いとも感じられる。でも元気な時はスパイスたっぷりで、味がバチっと決まっているスープが飲みたいのです。普通に。

それにずっと完璧主義のように生きてきたから、そんな馴染みのある自分を簡単に手放したくはないという気持ちもあります。まあでもこうしてどちらかを選び取ろうと常に考えてしまうこともまずやめていきたい。両方の面を持っていていい。それが例え器用にできなくても、どちらの自分がいるのも認めて、どちらにも振り切れない自分の曖昧さ加減をわたしは許していきたい。

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