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差別はこの世からなくならないのだろうか


1. サッカーより大事なこと


今日はアウェーでのシーズン第29節。

試合結果は2-3で敗戦。

仮に勝利していればプレーオフ圏内に食い込んでいただけに非常に悔やまれる試合内容だった。

だが、サッカーの内容以上に試合後に起きたある出来事は、ひとりの人間として考えさせられる出来事だった。


というのも自分たちのチームメイトのひとりにコートジボワール出身の黒人選手がいるのだが、彼に対して相手チームのひとりが人種差別発言をし、それに対して彼が逆上する形で暴力を振るった。

チームメイトが間に入って事はなんとか収まったが、いま現在の彼の心情は自分には想像することすら難しいだろう。

ましてや、彼と半年以上一緒にプレーしてきて、彼の人となりを知っている身からすると、彼が暴力を振るうことは相当なことだと推測できる。

当然暴力は許されざる行為であり、決して正当化されるべきではない。

暴力が新たな暴力を生むことは自明であり、どんなことがあろうとも暴力が何かの解決策になることはないが、暴力を引き起こす人種差別が存在することに対して無言でいることも、見過ごすこともできない。

チームメイトがその被害者になっているのであればなおさら。

サッカー選手としての実力を批判されたり、けなされることは全く持って構わない。

しかし、人種差別はサッカーという枠組みを超え、人間としての尊厳に関わる。

それは決して超えてはいけないラインである。

サッカーという競争の世界で、ありとあらゆる手段を使って相手を貶めたり、心理的な影響を与えようとするのは理解できる。

しかし繰り返しになるが、私たちはサッカー選手である以前にひとりの人間である。

私たちは国籍や肌の色が異なるとしても、人として平等であるという価値観をこの世界の当たり前にしなければいけない。

人を差別することで得られることなど、自分のエゴを強くすることぐらいで、決して良いことではない。

そもそも人種差別をする人間が生まれるのは、自分以外の誰かが人種差別する姿を見て、自分も人種差別して構わないと思うからだろう。

仮に身の回りのすべての人たちが多様性を尊重し、決して人種差別しない環境であれば、万が一人種差別するようなことに至ったとしてもその人間はすぐに考えを改めるか、社会からはじき出されるかの二択を選ばざるを得ないはず。

人種差別が存在し続けるのは、人種差別的な思想を支持する人間が一定数存在するからであって、彼らがその思想を捨てない限り今日のような出来事は繰り返されるだろう。

果たしてこの課題にどう向き合うか。

日本人の感覚からすると、人種差別は日本という国の外側で起きていることであり、なかなか実感が湧きずらいことかもしれない。

だからこそ、世界でサッカーをするひとりの日本人として自分が声を上げ、発信することが大事だと感じる。

まずは認知すること。

その事実を知ること。

ただ正直こうして文字に起こしている間にも、自分の無力さを思い知らされる。

声を上げたとしても、届けられる数が少ない。

目の前で起きている受け入れがたい現実を変える力が自分には足りないと感じる。

世界全体を変えようなんてことは今の自分にはとてもじゃないが言えたものではないことは理解している。

しかし、自分がいままで経験してきたことや、与えてきてもらったものを考えると、それら相応の身近な社会を変える実力すら身につけられていないと痛感する。

社会に対する発信力や影響力。

サッカーより大事なことは人生において数多くあるが、サッカーに社会を変える力を与えることもできる。

目の前の現実は、受け入れがたいものだが、それに逃げずに立ち向かう覚悟がいま試されている。

なぜサッカーでなくてはいけないのか。

サッカーで何を表現したいのか。

改めて考える時だ。




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