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春の香り(短編小説18)

「今日はもう手袋がいらないくらい暖かいですね」

照は、雪が溶けきらない2月の下旬に、暖かな日差しを浴びながら、ひとりでにそう呟いて、マスクを少し口から下げる。すると春の香りがして、あら?いつもなら、手袋より香りの方が先に春を感じさせてくれていたかしら?どっちだったかしら?なんて、記憶を振り返る。

そうこうしているうちに照は、あら?自分は今、何でお外にいるのかしら?と思う。わからなくなって携帯を確認すると「14時にバスに乗る」と書いてある。ああそうだったわ、バスに乗るためよ、と思い出してバス、バス、と呟きながらバス停に向かう。

やがてバス亭に辿り着き、バスを待っている人たちの群れに照も混ざる。
すると「こんにちは」とみんな挨拶をしてくれて、「昨日は寒かったですね」なんて声をかけてくれる人もいたが、照にはなんのことかわからなかった。

照には、昨日のことを覚えていられる記憶力が、ない。なんの病なのかはわからないが、自分の人生についてすら、ほとんどのことを忘れてしまった。何を覚えていられるのかもわからない。だからとりあえず今は、携帯に頼って沢山メモしながら生きている。いつか、携帯の操作方法すら忘れてしまう日が来たら、悲しいのだろうか、それとも、携帯というものがなんなのかすらわからず悲しみも湧かないのだろうか。

自分の人生、今、今、今を生きている照には、語れる過去はない。顔見知りらしき人に出会っても、昔話もできず、最近の話題提供もできず、自分の経験したことをシェアすることもできない。相手の話も時間の概念が混ざってくると、よくわからない。
ただただ、一緒にいることくらいしかできない。

そんな照のことを、一緒にいてもつまらなさそうにして去っていく人たちばかりだ。

照は申し訳ないな、と思う反面、
今、この春の香りを一緒に共有する楽しさを分かち合える人を、
探していた。

おしまい



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