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本日日記#3

知らない音を聞いたことはあるだろうかと、いつも考える。今まで聞いたことが無いという意味じゃない。それならきっと毎日聞ける。図書館でもレコード屋でも何処にでも在る。外からの情報じゃない。いまも、その前からも、ある時からずっと鳴っている音だ。誰の物でもない自分だけの、自分そのもの。

大人はみな自分が誰だか分かっているようで何も分かっていない。気付く前に子供だったのに大人だからだ。生きていれば、色んな事を知る。ありとあらゆる記号。そしてその意味。意味の無い事まで余計に覚えてゆく。ほんとうに意味のある事を忘れながら。人殺しでもないのに毎日屍体の数を数えながら平和を求める。身勝手に自然を壊しながら不便だと嘆く。そうやって他人に責任を押し付けながら不満を言う為に言葉を使う。そんなことは他人の勝手だ。自由にすればいい。

道端の草花に思わず近付いて、触れて、話しかけるとき、その手の感触の向こうに、返ってこない言葉にどんな意味があるか。言葉が通じない野鳥や野良猫に挨拶をするとき、その目の向こうに人は何を見ているのか。誰のものでもない月を眺めながらため息をつくとき、言葉にならないその言葉はどこに漂うのか。そんなことを考えたりする。他人には見えない景色がその人にだけ聴こえているのかなとか。それら全部が一人でいる時の景色な気もするなとか。それもまた他人の勝手だが、これなら自分の勝手としてもいいな。無責任ってことじゃないが。

自分のなかで鳴っている音は、死ぬまで誰も奪えない。

知らない音。

誰も知らない、自分しか知らない音。ヘンテコでも何でもいい。他人にとってはノイズかもしれない、自分にとってもノイズかもしれない。もしくはその逆かもしれない。ただしそれは常に、音楽になる前の音だ。

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