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何かに「駆り立てられる」ことから決別するために…

『子供は自分の中に二十二の襞を持って生まれ、それらの襞を一つ一つ拡げることが、その人にとって最も重要なのだ』と書いたのは、フランスの詩人アンリ・ミショーでした。その襞はいたずらに露顕されることもなく、人目に触れずおごそかに秘蔵されているのでしょう。

この言葉を思い起こすとき、僕の脳裏には何故かいつも【自由】についての考えがよぎります。そこで今日は、ハーマン・メルヴィルの小説『バートルビー』を敷衍しながら、そのことについて少し書いてみようと思います。

主人公(バートルビー)はまず、ひたむきな勤勉さを請われて、書記として弁護士事務所で雇われるのですが、他の書記たちと比べてとにかく寡黙さが際立っています。でも彼は単に無口なわけじゃない。雇い主である弁護士や同僚に何を依頼されても、またどんな些細なことを促されても、彼の答えは決まっていつも、『できれば、しないほうがいいのですが…(I would prefer not to...)』というものです。

彼の頑な態度に、どれだけ周囲が気難しい奴だと呆れようが、まるで意に反さない。そればかりか、同じ文言をただ繰り返すばかりなのです(実際、小説中の彼のセリフは殆どこれしかありません)。

作中『できればしないほうがいいのですが…』という文言は、あたかも呪文のように一人歩きを始め、今度は彼自身を捕縛していくことにもなります。彼が事務所にいる理由 (書記として文章を書くこと)すら、この言葉を発することによって自ら打ち消してしまうからです。にもかかわらず、彼はひたすら事務所に居座り続けようとします(彼は決して仕事を辞めたいわけではないのです)。

けれども、当初は戸惑っていた同僚たちの間にもこの言い回しが流行りだしてしまい、彼はとうとう事務所を追われる破目になります。そうして、ついには古ぼけた教会で、飲まず食わずの状態で身動きできぬ状態で発見されてしまうのです。彼にとっては、人間が生きる上での基本的な営為(栄養を摂取すること)すら、もはや「しないほうがよかった」のでしょうか。

メルビルが記したバートルビーの一貫した言葉と身振りは、或る意味で悲劇の所作であり、また喜劇のそれでもあるでしょう。でも、ここには【自由の在り処】をめぐって、何かとても重要な示唆があると僕には思えます。

通常【自由】とは、本人の意のままに行為を実現することだと考えられています。そして行為に際して、まず当人に示される選択肢は「するか、しないか」のいずれかです。「する」を選択した場合、「何を、いつ、どのようにするのか」といった行為の方法論が問題になります。一方で「しない」を選択した場合には、当の行為とそれに伴って実現される一連の出来事の積極的な否定となります。

さらに言えば、そのいずれにも先立つ前提条件として「できるか、できないか」という行為の可能性が必然的に問われています。できなくてもやる価値のある行為は確かにありますが、雲を鼻息で吹き飛ばそうとすることは端から無理でしょうし、はっきり言って無駄でしょう。

バートルビーの言葉と身振りがとても特異なのは、彼が単純な「する・しない」「できる・できない」という水準の選択をしているわけではないことです。一見曖昧とも取れる微妙な言説 『できればしないほうがいいのですが…』 で表明されているのは、行為の実現を否定する「しない」でも、行為の不可能性を示す「できない」でもありません。彼はむしろ、『しないでいることができる』ほうを望むのです。

彼の『しないでいることができる』という存在様式が、この流謫にあって本当に稀有でかけがえのないものだと僕が思うのは、何も抽象的な議論の理由からではありません。というのも、従来からすれば【自由】と見做されたはずの行為や選択は、今や「自己実現」の名のもとに社会的に勧誘され、また強要されているように思えるからです。

あえて雑駁な言い方をすれば、僕らの社会では『何事も自分に正直に自分らしく楽しみましょう(但し、もちろん世間的に許容される範囲で…)』というモットーが、常にすでに規範となっているのではないのでしょうか。

現代社会においては、「ありのままの欲求」や「自分らしさ」を実現する手段と目的は、『個性的であれ』という命題とともに、そのほとんどが消費/生産活動と直結されており、際限なく循環する経済システム全体の中に組み込まれています。

あらゆる商品広告を見れば一目瞭然ですが、本当は他人が欲しているものを望んでいるだけで、流行の「型」から些細な違いを生むだけの個性でしかない、とおそらく誰もが内心では分かっていることでしょう。にもかかわらず、いやそれ故に、皆が個性的であると見られることに非常に敏感です。逆に言えば、「この私のことなど本当は誰も見ていないのかもしれない」という不安に怯えているように思えます。

もちろん、各人が欲するままの行為や選択が、どれだけ社会的に勧奨されているにしても、現実には許容された選択肢が提示されているだけです。仮に、何かを積極的に選択して行為に移したとしても、『それは本当にキミが一番望んでいたことなのか?』と問われれば、「これも違うし、あれも違う」といったようにその選択は終わりなく続いてしまうことでしょう。

言うまでもないことですが、「自由に振る舞うこと」が義務付けられたとき、それをもはや【自由】とは呼びません。

小説『バートルビー』では、通常そうと考えられえている【自由】とは、全く別次元の【自由の在り方】(というより、その根拠となる「在り処」)が示されています。

彼の『しないでいることができる』というスタイルにあっては、「決して不可能ではないこと」すら、あくまで「しない」ことで ( 可能性を可能性そのものとして保持し続けることで) 行為や選択がそもそも可能となるような【潜在的な自由の領域】を確保しようとしています

また、そのような【自由】があればこそ「提示された現状の追認」とはおよそ異なった、別なる可能性を俟つことがことができるのです。それはまるで、未だ開陳されていないままの、無限に可能性を秘めた宝庫のようであり、おそらくバートルビーこそはその守護者なのです。

僕は、ここからまたさらに歩を進めて、潜在的な(現状ではあくまで可能性に過ぎないとされる)「ありえないこと」の出来(それによって、あらかじめ定められた「何が可能で、何が不可能か」の基準そのものを更新することができる…)についても考えてみたいと思っています。

とりわけ日本社会では、「明示的な否定」が集団内で暗黙裡に否定されている「同調圧力」という問題もあります。ですが、それはまた別の機会に譲ることにしましょう。思ったより随分長々と書いてしまったものですから。


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