【コロナで脱資本主義】エピソード3 なぜ、彼はパンと帽子の交換を拒否したのか?(3)
エピソード3
なぜ、彼はパンと帽子の交換を拒否したのか?(3)
テイラーが怒る気持ちもわからないでもない。しかし、一回目のときは問題なくパンとマフラーが交換できたのに、なぜ、二回目にはブルーノは交換に応じなかったのか。
それは、ブルーノが、テイラーの申し出は不公平だと感じたからである。
ブルーノがパンを焼くのに要したのは三日。一方、テイラーが帽子を編むのに要したのは一日。ブルーノが、次のように考えるのは無理もない。
「単純に交換したら、自分のほうが二日分損をする。これでは、自分の二日分の労働が失われる」
ここで注目して欲しいのは、労働にはこのように「量」という側面があることだ。
パンを焼くにせよ帽子を編むにせよ、頭脳を使ったり、肉体を動かしたりという点では同じである。こうした労働を、今後は「頭脳肉体労働」と呼ぶことにする。
そして、この頭脳肉体労働をどれくらいしたか。すなわち、頭脳肉体労働の「量」は、商品になったときに、商品の「価値」として浮き彫りになるのだ。
話を戻すと、ブルーノのパンという商品は「三日分の頭脳肉体労働」という価値があったのに対し、テイラーの帽子という商品は「一日分の頭脳肉体労働」の価値しかなかった。
両者の価値は三倍も異なっている。だからこそ、二回目のパンと帽子の交換は成立しなかったわけである。
繰り返すと、「商品」には必ず「価値」があり、その価値は、生産するために投下された「頭脳肉体労働」の「量」によって決まるのである。
もし、「頭脳肉体労働の量」がしっくりしなければ、「労働時間」に置き換えてもらって構わない。すなわち、「三日の労働時間でできた商品」と「一日の労働時間でできた商品」の価値は三倍異なる、ということである。
さて、もう一つ、注目して欲しいことがある。
一回目の交換に話を戻そう。あのときは、ブルーノもテイラーも、お互いに不満も不公平も感じることなく、パンと帽子の交換が成立していた。
なぜなら、二人とも、自分の商品を生産するのに費やした労働時間は「一日」であり、二つの商品の価値が同じだったからである。
しかし、それだけでは交換は成立しない。もし、ブルーノが、パンではなく帽子を編んでいたとしよう。この場合、帽子同士で交換をしても意味がない。
パンは食べるモノ、帽子はかぶるモノ。それぞれ「使用目的(種類)」が違う。だから、交換が成立したのである。
ブルーノの行う労働を真似れば、誰がやってもパンができる。同様に、テイラーの行う労働を真似れば、誰がやってもマフラーができる。
すなわち、労働には「量」のほかにもう一つ、「質」という側面があるのだ。
頭脳肉体労働という意味では、二人とも投下した量は一日だが、ブルーノの労働はパンを作るためのモノであり、一方のテイラーの労働はマフラーを作るためのモノであった。
すなわち、二人の労働の「質」、いや、質でピンと来なければ「労働の種類」と言葉を置き換えてもいいが、商品を生産するための労働の種類が、ブルーノの場合はパン、テイラーの場合は帽子と、異なっているのがポイントだ。
こうして、労働の「質」、すなわち「労働の種類」は、商品になったときに、商品の「使用目的(種類)」として浮き彫りになる。
※※※※※※※※※※
マルクんが続ける。
「このように、労働には二面性があって、その結果、それが投影されて商品も二面性を持つのです。この点について、お二人はどう思いますか?」
ボクは正直、目からうろこが落ちた。これまで考えたこともなかったが、「言われてみればなるほど!」という気分だった。
しかし、エリカは心もち不満気に吐き捨てた。
「そんなの当たり前じゃない」
「まぁ、いろいろな感想があると思いますが、このことは、実は経済学における歴史的な大発見であり、資本主義経済の基礎中の基礎となる真理なんですよ。ということで、もう一度あゆみさんと來未さんにご登場願いましょう」
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エピソード4までは無料でお読みいただけます。 「資本主義はもっとも優れた経済制度」と子どもの頃から刷り込まれ、それを疑うこともしない日本…
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