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◆仕事が大好きなわたしが、仕事を嫌いになった話

ひとはわたしをワーカホリックと言うかもしれない。でもわたしは依存しているわけでもなく、それはただ目の前にある「生活」だった。仕事も、そして家事も。「生活」だから、朝起きて歯を磨いて仕事をするし、洗濯をして皿を洗うし、風呂に入り寝る。でも、そのとき確実にわたしは「生活」である仕事を「やめたい」と思った。正確には、やめなきゃいけないかも、と思った。

思い描いていたスタートダッシュ

復帰までは「戻れるのだろうか?」と不安いっぱいだったし、「所属していた部門があるとは限らないから元どおりとはいかないかもよ」と言われた言葉は胸にこびりついていた。

でも、いざ復帰してみたら「元どおり」だった。いや、部内のメンバーは変わっていたし、メイン以外の業務は増えたりなくなったりしていたし、なんだったら部門の名称すら変わっていた。

しかし、わたしから見たら「元どおり」だった。

業務の仕方、居心地の良さ、仕事のやりがい、すべてが休む前と同じであり、「好き」と思える仕事そのものだった。


それはじわじわと

時短勤務をしつつ、さらに保育園の都合上、週に3回在宅をさせてもらい、足りない労働時間は夜間と土日に埋める、というスタイルで半年やってきた。

育児と家事がおわり、入浴も済ませてパジャマでPCの前に座る。喧騒もなく、最小限の明るさの中で進める業務は意外とはかどった。

うまくいっていた。ある時までは。

きっかけはなんだったのだろうか。
おそらく、寝かしつけのスタイルが変わったことだ。
抱っこしてゆらゆら、でしか寝なかったおちびが、保育園に通い出してから自ら「ゴロン」と布団に横になり、トントンで入眠するようになった。YouTubeで流すオルゴールも手伝ってのとこだろう。

それがあるときから、なかなか寝付かなくなった。何度も部屋を出て主人の作業場に絵本を持って訪ねる。そんなおちびを見ていると、逆にこっちが眠くなり、、、、はたと気づくと時計は0時。「これがいわゆる寝落ちか」と手を叩くなるほどの見事な寝落ちである。横を見ると、おちびはスヤスヤ。はぁーよかった、と思うのも束の間、わたしを待つのはシンク の中の食器たちと、洗濯機の中の洗い終わった洗濯物たち。そして2時間の残務。

最初は「寝落ちで3時間寝てるから、合計したら7時間だし、寝れてる寝れてる」と思っていたし、主人にもそう言っていた。

しかし次第に全て終わっても、なかなか寝付けず、時計は3時、、、「それでも合計6時間」、、、というふうには考えられなかった。もう、思考回路が停止していた。 

まずお弁当が作れなくなりコンビニで買うように。
続いて主人の話が聞こえなくなって、相槌さえもままならなく。
そして極め付けには職場の全員が敵に見えた。

特に、ちょうど「緊急事態宣言終了」の頃だった。「そろそろ在宅解除できない?みんな出社してくれたら助かるんだけど」といわれたが、もちろんその人のことも敵視しているわけだから「みんなって?特段仕事で関わってるのって、3人くらいなのに?全員が助かる?なぜ?そこまでしてわたしを出勤にしたいのは?同調圧力?」と心の中でやさぐれていた。

現実問題、週3在宅からフル出勤に変わると、わたしの場合、毎日3時間の残業がマストだった。それに加えて土日も勤務しなければならなかった。

到底、寝かしつけで寝落ちしてる場合じゃない。いまより睡眠時間を削らなければならない。想像しただけで気が遠くなった。

辞めたかった。

心のしこり


結局辞めずにまだ働いている。

おちびの寝つきは程なくしてよくなり、勤務について上司に洗いざらい話、無理がたたらない形にしてもらったのだった。

でもやはり心の奥底では、在宅から出勤になることで3時間が労働可能時間から通勤時間へと変わることは、とてつもなく非効率だと感じて絶望する。対外的には電話やオンラインでうまく連携できてるし、会議もオンライン出席という選択肢が定着しつつある。毎日プラス3時間、わたしは働きたい。

それでもなお、対面を重視すること(しかもオール在宅ではなく、週3回は出勤)のベネフィットが未だよくわからない。でも毎日出勤することで自分の評価を下げるのを阻止できるなら、仕方ないことだと、飲み込んでいる。やはりわたしはワーカホリックなのかもしれない。

とにかく今思うのは、いくところまでいかなくてよかったな、ということ。それだけだ。

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