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もぐる。

 東京の街。見渡すばかりのコンクリート。背の高いビルに囲まれながら、息苦しいその街を歩く。泳いでいるみたいだな、と思う。濁った水、空気、寄せては返す人の波。息継ぎをしないと死んでしまいそうだから、生存本能に駆られて切り取られた空を見上げる。天を衝かんばかりのビルの上では水飲鳥たちがせわしなく働いていた。この街の空はまた狭くなるらしい。過剰ともいえる自己増殖の果てに何をつかみ取ろうというのか。もしかすると、神様にでもなるつもりなんじゃないかな。

「海が見たい」

 誰かがそう言うのが聞こえた。近く、旅行でもするのだろうか。あるいは、これは自分の心の声だったのかもと思う。ただ、そんなことはどうでもよかった。僕の心の中は今、海が見たいという気持ちでいっぱいだった。それに気が付いたとたん、自分の姿がこの場所にそぐわない感じがした。ここは自分がいるべき場所ではない。ひどい疎外感に襲われた。今すぐにでも走り出したかったが、東京の人混みが僕の身体を放すことはなく、僕はただ流され続けた。

 僕は駅からいつもと違う電車に乗った。広いホームの一番端。そこへ目的の車両が乗り込んでくる。ところどころ塗装の剥がれた白い車体は、まるで電車らしくない、のそのそといった歩みで僕の目の前にやって来た。錆びついた車輪が甲高い音をたて、それに続くよう気の抜けた音で自動扉が開いた。車内に入り、僕は窓側の席へ腰かけた。内装は少し古臭かったけれど、これはこれで落ち着く。座席についた少し硬めのクッションも、やや直角に近すぎる背もたれも、そのすべてが僕の安心に寄与していた。周囲に他の乗客はほとんどおらず、遠くの席から婦人たちのささやかな笑い声が聞こえてくるだけだった。

 ビルの間を縫うようにして電車は進んでいく。そのうちに視界は開け、住宅街の屋根を見下ろすようになり、トンネルを抜けるとすぐに海沿いを走るようになった。海はその大きな体を悠々と揺らしながら、その身に受けた陽光をきらきらと跳ね返している。その姿を見て、僕の中にあった疎外感は粉々に砕け散った。受け入れられていると感じた。すべての水が自身へと流れ込んでくるのを許すように、当たり前に僕のことを受容してくれた。それだけで僕の胸はいっぱいになって、あと少しで泣き出してしまうところだった。

 海に近くて、一番周りに何もない駅で電車を降りた。そこで降車したのは当然僕一人だった。電車がホームを去ってしまうと、本当の本当に一人だ。駅のホームから、砂浜へと階段が続いている。ひび割れ草が生い茂ったコンクリートの階段を、カウントダウンでもするみたいに一段一段下りていく。海を見たのはいつぶりだろう、と思う。いや、本当は何度も見ていた。見ていたのに僕は気づいていなかったのだ。見ていたのに見落としていた。何を?この海が生きていることを。膨大な神秘とともにありながらも、その寛容さにひとかけらの曇りのないことを。ああ、海はこんなにも偉大だったんだ。僕らはみな、海から生まれた。

 日が傾き始めるまで、僕は海を見ていた。ときには立ち、ときには座って海を眺めた。堤防も歩いた。桟橋の先のほうまで行くと、海の中に一人でいるみたいだった。静かで、水だけが揺れていて、ずっとひとり。空と海との境目が曖昧になって、自分がどこに立っているのかすら分からなくなる。僕はそのとき確かに海と繋がっていて、そうして確かに海に許されていた。
 
 


僕を助けられるボタン