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お金という臆病な生き物

 お金に振り回されないために、お金と上手に付き合うために、ときにはお金についてじっくり考えてみましょう。
 お金って案外バカバカしいものなのかもしれませんよ。

お金という臆病な生き物

◇ お金の威力
 お金の威力は、あらゆるものの価値を1つの指標で表す点にある。物の価値も、労働力も、土地も、慰謝料も。そして時には人の命までも。もちろん、会社の価値や他の通貨の価値を測る指標でもある。それが株価であり、為替レートである。
 単なる物差しと言えばそうなのだが、あらゆるものの物差しになりうるという点こそがお金の威力である。その点では、お金に変わるものは無い。「たくさんあればいろいろ買える」などというのはおまけにすぎない。

◇ お金という生き物
 お金というものはとても臆病な生き物だ。自分がいつ役立たずになってしまうかもしれない。そうなることを恐れて、いつも逃げ場を探している。自分がいつ無価値なものになり果てるかもわからない。そうならないように、いつも逃げ回っている。
 人がもうけ話に誘われて株価や為替が動くのではない。逃げ回った結果として価格が動くのである。なぜそんなにも臆病なのかというと、実体が無いからだ。

◇ お金という幻想
 お金は要は紙切れに過ぎない。いや、いまどきのお金は紙切れですらない。それは通帳のインクのシミであり、コンピュータを流れる電気信号にすぎない。
 では、なぜ人がそんなものをありがたがるのかというと、そういうことになっているからだ。もう少し正確に言うと、「『そういうことになっている』とみんなが思っている」とみんなが思っているからだ。
 「私は『王様は裸だ』と思う。けれども、他の人は『王様のお召し物は素晴らしい』と思っているようだ」みんながそのように考えれば、「王様のお召し物は素晴らしい」ことになる。同様に「お金はありがたい」のだ。

◇ お金が紙切れになる日
 いつの日にか、お金が紙切れになるとき、すなわちお金が無意味になるときが来るのだろうか。第3次世界大戦が起きたとき? 巨大隕石が地球に衝突したとき?
 そういうことも無いとは言えないが、もう少しありそうな局面は世界的な食糧危機が起きたときだと思う。そのとき人は都会を離れ、食糧生産に励むことになるだろう。そして、食糧が物の価値を測る指標になる。こうしてお金は指標としての威力を失い、逃げ場を失い、幻想が崩れて、紙切れに戻るのである。

「格」と「差」の間に

 「差」とは「収入の差」のことだ。あるいは「貧富の差」のことだ。「格差」という言葉を使う人の間で、そこにブレは無かろう。
 では、「格」とは何者か? 「差」といえば十分であるかもしれないのに、なぜ「格」をつけるのか? そこにどんな意味を込めているのか?

 探ってみよう。「格」という文字は「性格、人格、品格、風格」のように使われる。しかし、いずれの使い方においても、「お金」という意味合いはどこにも無い。さて、いかなる理屈で「格」と「差」がつながるのか?
 「教育格差」という言葉もある。その意味は単に「学力の差」ということではない。むしろ焦点は「教育にかけられるお金の差」にある。「貧富の差」が「教育の差」を生んでいるという主張だから、ここでも「格差」はお金と結びついていると考えざるを得ない。
 「格差」という言葉が出てくる発端は、いつもお金の話なのだ。それでいてこの言葉は、人の価値みたいなものを中途半端に匂わせる。説明不足なのだ。 話が飛び過ぎなのだ。だから人を戸惑わせるばかりで、何のヒントも与えない。
 こう言いたいのだろうか? 「収入の差」が「性格、人格、品格、風格」に影響して「人間の格付け」を決める、と。厳しい物言いであるが、「格差」という言葉にそういうニュアンスを感じないわけではない。そして、そういう面もあるのかもしれないな、とも思う。

 でも、それにしても「格」と「差」にはずいぶん開きがある。「収入の差」がいかにして「格の差」になるというのか? 「お金の差」がいかにして「人の格」に作用するのか? その間をもうちょっと埋めてみた方が、事態がよく見えるんじゃなかろうか?

国内総生産のカラクリ

 生活様式も生活水準も全く同じである2つの国、A国とB国があったとします。あるときA国で虫が大発生しました。そこで殺虫剤を生産・消費すれば、国内総生産(GDP)が増えます。殺虫剤によって水が汚染されたとします。水を浄化しても、飲料水を生産しても、GDPが増えます。健康被害が起きて医者にかかれば、さらにGDPが増えます。
 B国では虫が発生しなかったために、殺虫剤を撒くこともなく、自然の水を飲み、健康に暮らしています。
 さて、A国とB国では、どちらが豊かでしょうか。国内総生産(GDP)を豊かさの指標とするなら、A国の方がB国よりも豊かだということになります。A国の人々はB国の人々より、多く働き、多く生産し、多く消費しましたから。
 けれども、A国の人々は失うばかりで、何も得ていません。B国の人々の方が、A国の人々よりずっと良い暮らしをしているといえるでしょう。

 保存料たっぷりの食品はGDPにカウントされますが、自家製の安全・安心な食材はカウントされません。塩素消毒した水道水はGDPにカウントされますが、天然のおいしい地下水はカウントされません。家庭ゴミを自治体のゴミ回収に出せばGDPにカウントされますが、家庭で堆肥にするとカウントされません。
 工業製品を作るときにゴミが発生し、製品そのものも最後にはゴミになります。その処理でGDPが増えます。究極のゴミは CO2 です。その対策コストもまたGDPに含まれます。
 これまで、GDPが増えることを経済成長と呼んできました。けれども、それが豊かさにつながるとは限りません。産業が細分化すればするほど、行政が肥大化すればするほど、豊かさとは無関係な経済活動が増えます。豊かさにつながるのはGDP増加分のうちのほんの一部か、場合によってはGDPが増えても貧しくなります。そうなると、GDPを豊かさの指標とするには誤差が大きくなりすぎます。

 さて、ここで2つの疑問が浮かびます。1つ目は「豊かさの指標として何がふさわしいか」、2つ目は「GDPは何の指標にふさわしいか」。
 1つ目の疑問は別の機会に考えるとして、ここでは2つ目の疑問について考えます。GDPはむしろ「エネルギー消費量」ならびに「CO2 排出量」の指標にピッタリなんじゃないでしょうか。もちろん誤差はありますが、それを「豊かさ」の指標とするよりは、誤差はずっと小さいでしょう。
 「経済成長と環境の両立」と言いますが、「経済成長≒エネルギー消費量≒CO2 排出量」だとするならば「経済成長と環境」はほぼ両立しません。むしろ対立します。経済成長は地球温暖化を加速させるだけでしょう。
 むしろ両立しうるものといえば、「GDP縮小と豊かさ」ではないでしょうか。「GDP縮小≒マイナス成長しながら豊かになる」道を探る方が、「経済成長と環境の両立」を目指すより、ずっと現実的だと私は思うのです。

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お金の相対性理論
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