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女子高生がバイトが原因で鬱になった話

2年前の当時(高校一年生)の私の夢はウェディングプランナーになること。

思い立ったら速攻行動に移す私は、
高一の秋、高校入学時から始めたパン屋さんのバイトを辞めて、ホテルのウェイターのバイトを始めた。

大半のホテルのウェイターは大学生以上ではないと採用してもらいえなかったけれど、私が働いていたホテルは人手不足が深刻で高校生でも雇ってもらえた。一駅先の少し遠い場所だったけどそれでも経験を積めることが嬉しかった。

白いワイシャツを着て、首には黒い蝶ネクタイ。髪はバレリーナみたいにきつめのお団子を足元は慣れないヒールとストッキングを履いていた。
(12時間働いた時は足が血だらけだったよ。。)

仕事内容は
政治家の会食、同窓会、新年会、忘年会、婚礼などなど…。
立食などでは、白い手袋をして料理を出したり、トレー片手にお客様が使用したお皿、コップを集めたりする。
時にはバーカウンターに立たせてもらった。
(沢山の経験を積ませようとしてくれていたのだと思う。ありがたや。)
婚礼では椅子引き、ドリンクのケア、料理を出す、スープを注ぐ、アレルギー持ちのお客様を暗記、慣れないメニューも読めるようにした。
また、会場の準備も片付けもウェイターの仕事だった。

個人的に1番辛かったのは婚礼だった。
プレッシャーで押しつぶされそうだった。
「失敗したらお客様にとって一生に一度になるかもしれない結婚式が、台無しになってしまうんだ!」と十五歳の私は毎回乾杯の挨拶の際のシャンパンを震える手で入れていたのだ。

勤務していたホテルは万年人手不足だったので一つの会食や婚礼には社員は約1人。
社員は全体の様子見やお偉いお客様の側に着くので、大体はバイトが会場でもキッチンでも指揮をとっていた。
(指揮を取る人には色々名前があったが忘れてしまった。)

2歳上の高3の先輩は指揮をとって、
「三卓まだ料理出てないよ、急げ!」「じゃあ次メインいくよ。」みたいな感じで、私を含めバイト全員をまとめている姿がかっこよかった。

それに引き換え私は、足手纏いだった。
中学から高校の文化祭まで、クラスをまとめる存在にいた私は自分の力不足に酷く落胆した。

学校の行事では私の計画通りに、クラスメイトに動いてもらえれば、優勝ができたし(なんかナルシストみたいだけど。)そんな姿を先生はベタ褒めしてくれた。
パン屋さんのバイトでは飲み込みが早いとパートさんに褒めて貰った。
そんな甘い環境に身を置いていた私は
「今回のバイトも、今までの要領で行けば良い。自分は役に立てる。」と鷹を括っていたのだ。

しかし実際は足手纏いの新人ちゃん。

努力が足りないと思った私は、仲良くしてもらっていた先輩から、沢山のことを質問し、メモを取って学校の授業中も頭の中で何度もシュミレーションをしていた。

しかし足手纏いなのは変わらなかった。
「今日のメンツ新人いる!使えないじゃん!」と同じ会食を担当した社員さんから言われるたびにやっぱり自分は…と萎えたし、自分でも上手く動けてないことはわかっていた。

しかし、何故上手く動けないのか当時の私は気付くことができなかった。
ただ、頭を抱える日々だったのだ。

今考えると、

根本に失敗することへの恐怖があったのだとおもう。

次なる失敗を恐れるが故に、体も頭も動かなくなってしまった。

そして何よりも失敗して自分を嫌いになるのが怖かった。

失敗をする自分を認めるのが怖くて、それを成長の糧にすることができなかったのだ。

しかし、その事に気づけず、バイトに脳味噌を侵略され始めていた私は、完全に視野が狭くなっていた。

学業<<バイトになってしまっていた。
それまで13位だった学校の成績は50位まで落ちた。

家族から「自分で決めたことだろ、弱音を吐くな!」と言われていた私は、
勤務中、仲のいい先輩に
「バイト入れすぎて、成績落ちちゃいました。」とふと愚痴を溢すが、
「バイトのせいにするな」と一括されてしまう。
私はそうか、やはり努力不足だ。
と勉強にもバイトにもさらに拍車を掛けた。

その時の私のクオリティーオブライフは最低だった。

バイトから家に帰ると大体夜中の11時30分。
ヒールで歩き回って疲れていた私は、リビングの床にばたっと倒れ寝る。そして、遅刻ギリギリの朝7時半に起きてお風呂も入らずに学校へ行く。
肌荒れもし始めて、頭もぺたぺたになった自分が、汚くて情けなかった。
楽しくて仕方なかった学校でも笑顔でいるのが辛くなった。
バイトがない日は勉強ばかりして、自由な時間はなかった。

バイトを辞める。という思考に至らなかった一つとして、私の過去が関係していると思う。
私は過去、何一つ物事を続けたことがなかった。
部活は、父親の勧めで入りたくもない運動部に入って辞めてしまったし、部活の影響で体調を崩した私は塾も辞めてしまっていた。
結局何かのせいにして逃げてしまうのが私だった。
「そんな自分を変えようと頑張っていたのに、ここで辞めるのは自分が許せない」と思ったのだ。

しかし、流石に体が持たない。
バイト先に「学業に専念する」といい、出勤日数を減らしてもらった。
が、バイトがない日は勉強どころかベットで涙を流す日々に変わってしまった。
毎日目はパンパンに腫れていた。

この頃になると、
勤務中は、お客様が笑顔で椅子に座っているなか後ろでトレーを持ちながらこっそり涙を流していた。
また、趣味も変わってしまった。
元々絵画が好きだったのだが、過激な絵(グロい)ばかり求め、まるで宗教のように休憩時間になるとロッカーまで走っていき、過激な絵を眺め涙を流していた。
今考えると何故そんな奇行をしたのか分からない。

そして脳味噌だけでなく身体もバイトに侵略された私は、とうとう身体もぶっ壊れた。

朝、起きることができなくなったのだ。
ベットから起き上がれない。目も開けられない。それまで遅刻なしで学校へ行っていた私が不良になったのではないかと先生、クラスメイトは心配をしてくれた。
母親はカンカンに怒っていた。
どんなに怒られても私は起き上がれなかった。
しかし、夕方になるとバイトがあるので、重い身体に鞭を打ち泣きながらバイトへ行く。
母親は「学校には行かないくせにバイトに行くのかよ!」と(ごもっともである)ブチ切れていた。
今なら異常だと分かるが、当時は何を優先するべきなのか分からなくなっていた。もう思考は死んでいたのだ。

そんな生活をして1ヶ月。相変わらず学校には遅刻ばかりして行っていた。
また、バイトと学校がない休日はモノを爆買いをした。
何かを買うことで得る喜びや興奮を感じたくて、十万円以上を2週間で一気に使った。
デパコスを四万円分買って、BAさんとお話をした。大量に洋服も買った。タピオカも飲んだ。しかし、何も感じない。そんな日々だった。

そんなこんなで、突然だが、最終出勤の日がやってきた。
クリスマスの前日だった。
とても寒い日だった。
マフラーを巻いていた私はその日は学校へ行けていなかった。
マフラーに顔を埋めて泣きながら、電車に乗り、駅からも泣きながら歩いてバイトへ行った。
同級生の仲のいい女の子と同じ会食場での仕事だった。社員もまあまあ優しいメガネの人だった。

1人で会場の片付けをした私は、いつもは捨てるお客様が手をつけてないケーキをゴミ箱に捨てる前に少しだけ食べて、勤務を終えた。

これが最後の出勤だった。

その後、長い冬休みをいただき、
体調不良が続いているということを告げてバイトは辞めた。

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