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私の物語(自分探し編)

私の人生のテーマをひと言でいうなら「独立独歩、自分を信じる」ということです。

私は父方の家族の影響と小中高と転校を繰り返し、常に環境に順応することを求められた反動もあって、自己に対する強い執着がありました。戦前に外地で暮らした父方の祖父母や父の影響もあったのかもしれません。何かを成し遂げたいという気持ちが大学生の頃に生まれ、職業を持って自立することが目標でした。私たちの時代、自立を目指す女性が選ぶ職業は、特に優秀な人でない限り、教師、公務員、看護士だったように思います。けれども、私にはそのどれもが魅力的に見えず、英語が堪能ならば道が開けるかもしれないと思いって大学は英米文学科を選びました。

英語が得意だったわけでも、好きだったわけでもありません。ただ、そこにしか道はないと思ったのです。しかし、幸い恩師と呼べる方に巡り合い、意欲的に学ぶことができました。女子大だったのもよかったと思います。男性に忖度することなく意見を述べたり、女性だけで行事を企画したりできたからです。

充実した4年間を過ごしましたが、就職活動は、当時、「女子大生不要論」なるものがはびこっていましたので、門前払いばかりで苦労しました。同級生たちのほとんどは、就職しないか、親のコネで「職場の花」になるような状況でした。女性にとって就職は、結婚という「永久就職」の前の「腰掛」にすぎないと考えられていましたので、そういうことを気にする人もあまりなかったのだと思います。けれども、私の場合は、そういうわけにはいきません。やっとこさ新聞の求人広告で見つけた国際特許事務所に無事採用され、大学を卒業した春、社会人になりました。1981年のことです。

その後、20代の間に、3度の転職とオーストラリアへのワーキングホリデーと留学を経験しました。女性が結婚以外で職を辞するなど、当時の世間の常識を考えると、まったくもって不適切でした。けれども、私は、自分を信じて行動する以外に選択肢はないと思っていました。今から40年以上も前ですが、当時は未だ社会的に認知されていない「ワーキングホリデー」に行くという私を、なぜか父は止めませんでした。彼は多くを語りませんでしたが、自分の人生は自分で切り開くしかないと思っていたのかもしれません。父は、私が大学生の頃に病を得て閑職に追いやられ、私が28歳の時に亡くなりました。不運な人だったと思います。そういう時、私の前には頼る親がないことを見下す人が、当然のように現れたりします。思いがけない人がそうだったりもします。でも私は、それを不当だと感じることはあっても、みじめだと思ったことは一度もありませんでした。捨てる神あれば、拾う神あり。父の死から11ヶ月後に再度、渡豪し、秘書の専門学校の学生になるときは、白紙に署名をして送った委任状を使って、入学手続きをしてくれる人も現れました。

私にはもうひとつ信じているものがありました。24歳の時にオーストラリアで入信したキリスト教です。けれども、ここにも課題がありました。私は、万物創造の神とイエス・キリストを信じていましたが、日本人のアイデンティティも強く意識していて、キリスト教徒として生きるならば欧米風を上位の置くべき、という所属していたインターナショナル教会の考えに同意できませんでした。日本人が集まる教会に行くと、そこはひどく封建的に思えました。ところで、私は1980年頃にはすでにアイデンティティという言葉の意味を考えていました。私が学んだ米文学の中には「自分探し」のテーマが数多く登場したからです。

私にとって、どういう仕事をするかはアイデンティティの一部でした。転職を繰り返したのは、そう言える仕事に巡り合いたかったからです。キリスト信仰も私のアイデンティティの一部でしたが、日本人であるという神から付与されたアイデンティティと調和しないことに、私は大きなフラストレーションを感じていました。周りのクリスチャンが何も感じていないように見えるのは、私にすれば付和雷同のようで、本当に不思議でした。皆と違う私。でも私は私です。他人と比べても仕方がない。そして、自分の問題は自分で解決するしかありません。

この問題をどうやって解決するかを考えていたとき、米国のフラー神学大学院のことを知りました。そこでは文化人類学と神学が一緒に学べるといいます。異文化コミュニケーションを学べる神学大学院としては、世界のトップランナーということでした。私の貯金は修士号を取得するまでに必要な学費の3分の一ほどです。バブルが弾けて持ち株の価格が半分になった直後でした。けれども、これに賭けるしかありません。私は(信仰によって)一歩を踏み出すことにしました。神のみこころならお金は後からついてくる。途中で挫折したところで大したものを失うわけではない、と自分に言い聞かせ、かつて務めていた会社の上司(アメリカ人)とアメリカ人の牧師に推薦状を書いてもらい入学願書を提出すると、何と入学が許可され、学費の一部も援助されました。そして、1991年9月、私は米国カリフォルニア州パサデナ市のフラー神学大学院宣教学部の修士課程に進みました。(続く)

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