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救急医療とは社会の要請である

*とある雑誌の依頼原稿の下書き

① 「したいこと」ではなく、「求められる」ことを

僕は「救急医療とは社会の要請である」と思う。救急医としての師匠である、聖隷三方原病院高度救命救急センター早川達也センター長が同じことを仰っていた。各時代、各地域で求められている医療を提供することこそがプライマリーケアの宿命であり、その表現系の一つが救急医療なのだ。

元々。外傷外科医を目指していた時期もあり、今でも重症患者の救命やハンドリングはアドレナリンが出る仕事だ。しかし、軽症だから軽視していいとは思わない。救急医の喜びは人口の多くに貢献できる点だと思う。一握りの重症症例のみでなく何かしらに困って病院に現れた人に寄与できるのが我々の仕事だ。ある意味何もできない仕事だ。在り方が定まらない仕事だ。だが、そのアモルファスな存在様式こそ、救急医の喜びなのだと思う。重症度にこだわるのであれば、Bio-psycho-socialのどれかが重症であれば、それが僕らの仕事だ。

そして、Advanced TriageがERで完結できない症例を不幸にさせない為に、時として、我々は入院ベッドを持つ覚悟が必要だ。各診療科への尊敬は必須だが、患者にとって適切でない診療科に依頼するくらいなら、自分達が最後まで診る覚悟も必要だ。無論、際限がなくなるし、ホスピタリストが居るならバトンタッチするのがベストだろう。ただ、この日本でホスピタリストがいる施設はまだまだ少ない。だからこそ、超急性期の総合診療医たる救急医が、そこまで診れなければならないと信じている。

② 「質改善」の渇望が研究を動かす

日々の臨床の中でうまくいかないこと、もしくはもっと良くしたいこと、それを感じた時こそが動くべき時なのだと思う。エビデンスの後追いも良いが、エビデンスが無いからこそ創意工夫をして乗り越える訳だが、大切なのは、その妥当性の検証だと思う。これは良い!と思う小さな工夫の報告も、ERならではの記述疫学的な報告も、大切な我々の仕事である。自分の日常臨床の妥当性の検証という作業こそが、学びを生むと信じている。

③ チームで同じ絵を描きたい

理想形が最初から同じなら苦労は要らない。しかしながら、多種多様な価値観を持ち込むチームだからこそ、到達できるものがあるし、それ故に摺り合わせと言うプロセスは必然と思う。強いリーダーが大きな絵を描いて、そこにチームメンバーが寄り添うスタイルもあるだろう。当然、どんなチームもオピニオンリーダー的な存在があって良いが、言わば独占に近いような価値観の共有は健全ではない。だから、チームで同じ絵を思い描けるように話し合う。当然、衝突する。なかなか議論が煮詰まらず、先に進まないこともある。それを許容しつつ、決める時には、時間的な制限を設定して、仕上げる。そのコーディネートがチームリーダーとしての僕らの仕事だ。

④ いつか出て行く人材こそ、大切に

臨床医は、即戦力になって欲しいと思えば思う程、アウトカムを求め易い。その意味で、トレイニーがローカルルールに強く馴染み過ぎてしまうことを許容する傾向にあると思う。若者が臨床の喜びを見付けて伸びて行く上で、それは大切なプロセスだ。だからこそ、僕も許容はする。だが、それだけではないことを伝えなければならない。電話一本で直ぐ循環器内科医が来てくれる病院だからこそ、ERで最終判断しなければならないが如くロジックを組むよう指導する。「当院で輝けるスタッフ」が「当院でしか輝けないスタッフ」ではならない。他院で通用するには、心技体が揃っていなければならない。自分と同じように臨床ができることは自分と同レベルの知識と論理性を持つこととイコールではない。

#医療 #救急 #仕事 #教育

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