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僕らが考えることをやめたために長いタイトルのラノベが増えてきたと思う件

この記事はLIGのアドベントカレンダー2019の8日目の記事です。ポエムなので、ここに書くことにした。3回目2日ぶりだ。8日空いてんだもん。11日も俺が書く気がするよ。

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で、凄い感覚的なことを何もファクトに基づかず感覚で話すことを許してほしいんだけれど、一般的に説明過多な商材が増えたと思う。

どういうことかと言えば、例えば商品名に対してよく思っていたことなんだけど、「目が飛び落ちるほどおいしいヨーグルト」とか、「裸の王様御用達透き通るほど白くなる漂白剤」とか、商品名がもはや説明になっている、そういう説明過多な商品が凄い増えたし凄い売れた。

それはそれは本当に説明口調で、できの悪いファンタジーの冒頭のような、この社会に慣れない人のためのチュートリアルのような商品名が増えた。なぜだろう。

僕自身、そういうものをとても買った。正直、とても惹かれた。そう書いてあるんだからそうなんだろうと安心して信じられた。「もちもち」は魅了の呪詛だと思う。僕は自分がまだまだ世界初心者だと気づいたし、たぶん、みんな気づいたんだと思う。そうそう、そこまで言ってくれると助かるんだよ、と。

たぶん時を同じくして2010年ちょっと前からだと思うけれど、ライトノベルのタイトルがそれはそれは長くなったと感じるようになった。今は本当に長いし、とりあえずみんな異世界に行っちゃう印象がある。それがコミカライズしてるからかどうなのか、漫画のタイトルも長くなってきたように感じる。

でも、そういう説明過多な情報を提供されると、ときどき意地の悪い僕が頭の中に出てきて、世界が憎いという顔をしながら次のようなことを言うようになる。

「僕らは頭が悪いと思われてるんじゃないか」

「僕ら」の部分は「消費者」にでも、「ユーザー」にでも変えてもらっていい。要するにサービスを提供する側が、サービスを享受する側のことを「頭が悪いやつ」「知識に乏しいやつ」と定義して接している気がするシーンが増えた。

ここで突然だけど、無理やり視点を変える。僕は消費者でもあると同時に、作り手でもある。たぶんこれを見ている多くの皆様も何らかのサービスを提供していると思う。そっち視点で見てみる。

その「消費者バカだから説明過多理論」なのだけれど、一見すると少し違和感を感じることがある。iPhoneという無説明の革命児が世の中に放たれたのが2007年だった、ということだ。

その辺からサービスを作る人達は脳味噌に何かが寄生したかのように「直感的直感的」とうわ言を言うようになった。アプリケーションのアクションがみんなアイコンになって、見ようによっては象形文字の時代に逆戻りした。つまり、この分野では説明過多ではなくなった、と言える。説明書もなくなったし。

この同じ時代に起きているその2つの現象は一見矛盾に思える。でも、おそらく矛盾はしていない。考えるに2つとも「直感的」を求めた結果であって、2つの理由から説明過小か説明過多かに分かれるのだと思う。

iPhoneやAndroid、PCは画面上でリッチなインターフェースを提供できるからアイコンだけで多くのことを語れるようになった。パッと見の情報量とデザインでの解決方法の多様化の話。

逆にジャケ買いの代名詞だったはずのライトノベルは、ジャケ買いをするということが減ってきた気がする。(※要出典)ぶっちゃけ最近のラノベの表紙は、みんなかわいいので割と何でもジャケ買いに値する。(※個人の感想)

悪いように言うと、ジャケットの違いが分からなくなってきた。だから差別化のために説明口調のタイトルが必要になった。牛乳もそう、パンもそう。食べなきゃ分からないから説明が必要になった。

さらにコンテンツを試したとき失敗した(つまらなかった、お金や時間を無駄にした)ときのインパクトが違う。最近はアプリケーションで言えばフリーミアムやらサブスクリプションが増えてきて、支払うリソースは極小な上に、インストールするだけでだいたいすぐに全機能試せたりするし、ユーザーは得られる対価を感じやすい。

けれど本とか食品はそうはいかない。本は読むのに買わなきゃならないし、ある程度まとまった時間が必要になるし、食品は食べて失敗したら結構なぜかショックがあるから、慎重になってしまう。

つまりインターフェースがリッチで失敗感を取り戻せるものは説明過小に、そうではないものはできる限りの「直感的」を出すために説明過多になった、ということではないかと思う。この2つは矛盾せず、どちらもできる限り直感的に商材を説明しようとする意図を持っている。

直感的というのは要するに迷う時間を減らすことだ。人生のメインコンテンツ以外について、考える時間が減らさざるをえなくなってきたのだ、いちいち比較検証する時間、脳力が面倒なのだ、だから情報量の多いサマリを求めるぜ、ということだと思う。

そういうものが売れて、マーケティングにもそれが使われて、商材みんなジャケ買いができることを求められてきていて、冒頭に戻る。「一般的に説明過多な商材が増えた」のだ。説明過多というのは、実は相反するような概念、「直感的」を求めた結果の、別のアプローチなのだろう。

色々語ったけど全部当てずっぽうの要出典なので真に受けませんように。それでも当たらずとも遠からずだと思うし、もっと正鵠なことをもう論文レベルで誰かが語ってくれていると思う。

追伸。

コンテンツやサービスを作ってると「ユーザーを猿だと思え」みたいな訓言(?)が多いし、それも当たらずともだと思うけど、判断を任せるようになっただけなのでユーザーはバカになったわけではなく、リスペクトを欠いたコンテンツ、サービスは見え透くので気をつけたい、とも思う。

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