メタバースの未来を読む:メタバースの住人「バーチャルな存在」の分類論
2021年は「メタバース」という言葉が一気に注目された年でした。
やや言葉だけが独り歩きしている感のあるメタバースですが、簡単言ってしまえば今のインターネット空間の発展版です。
WEB空間がVR空間に変わり、SNSのアイコンに代わってVR空間を3Dアバターが闊歩し、今までテキストベースだったコミュニケーションが音声コミュニケーションに変わる。
そんな現実世界の相似形としてのネット空間、それがメタバースの実像でしょう。
(※VRは必ずしもメタバースに必須の要素ではありませんが、この文ではVRメタバースを前提として話を進めます)
GAFAの一角であるFacebook、改めMetaが本腰を入れている以上、おそらく数年後には、そうしたメタバースが私達の身の回りにもある程度浸透してくることと思います。が、その時、私はある問題が提議されてくると考えています。
仮想空間における「精神的スタンス」の違いによる摩擦という問題です。
どういうことかというと、先の説明では、メタバースとはあくまでインターネットの発展版と単純化しましたが、実際はその特性により多くの変化が生じます。中でも注目したいのはVR空間における人の精神的な変化です。
人は意識的にも無意識的にも、自分の容姿や属性(年齢・性別・社会的地位etc)から大きな影響を受けています。例えば年齢が上がるにつれて、落ち着いた振る舞いをせねばならないという圧力が自ずと人の行動を変えていきます。男性・女性の性差については言うまでもありません。
しかしVR空間にはこうした現実の自分の属性から開放され、望むままの自分になれる可能性が存在します。
望むままの容姿を与えてくれる3Dアバター。VR空間はその容姿が「新たな自分である」という実感(あるいは錯覚を)与えてくれます。さらにネット空間の匿名性が、現実のあなたとのつながりを断つことによって、VR空間は人の心の在り方を自由にしてくれます。
そうした望む新たな自分の姿になることが、どんな風に人の心を変えるのか?については、同じく自由に己の要素を選択できるVTuberを例にとって、下記のnoteで触れました。
しかしこのように「この世界の自分は現実とは別の新たな自分」というスタンスで、新たな可能性を拓こうとしている人たちがいる一方で、メタバースの社会浸透が進めば進むほど「現実の自分とメタバースの自分は同一」という「常識的」なスタンスの人が圧倒的多数派となるでしょう。
今のVR空間は、例えばVRChatは、マニアの集会場の域を脱しておらず、それゆえに場にも人にもそうした「この世界の自分は現実とは別の新たな自分」という「お約束」を尊重できるサブカル的な土壌があります。
一方、後に多数派になるであろう「一般的な人たち」にとって、そうしたお約束…よりキャッチーな言葉で言えば「メタバース原住民の文化」は、理解できない、異質なものです。
しかも一層難しいことに、こうした「文化的なギャップ」を抱えていても、それは精神的なスタンスの違いという不可視な要素であり、表面的な部分から両者を判別し、相互に理解することは困難でしょう。ここで両者に摩擦が生じるのはごく自然な流れだと思います。
幸い、今の時代にあって(少なくとも先進諸国では)マイノリティの権利を尊重する風向きが強いですし、こうした在り方もまた理解はされずとも、そういうものと尊重される可能性は十分あるでしょう。
…ただしそれには必要不可欠の条件があります。「存在を認知されること」です。
例えばLGBTQといったセクシャルマイノリティは「LGBTQ」という概念(名前)が尊重されているのは、広く認知され、社会的に共有されているからこそです。逆に言えばその存在が可視化されなければ、それが人口に膾炙し概念として共有されていなければ、個々の人間は「たまにいる変わった人」と認識されるにとどまり、今のような社会的立場はあり得ないでしょう。
このように、存在を認知されることは尊重されることの必要条件なのです。
そこで提案するのがメタバースの住人、バーチャルな存在の分類論です。
現実の拡張としてメタバースを捉える「普通の人」たち、一方でそこに現実自己とは隔絶された新たな可能性を見るパイオニアたち。さらにその中にある様々な在り方。
それらを一枚の盤上に表現し、可視化することで、互いの在り方を理解し、尊重し合う助けとなることができればと思います。
◆分類のフレームワーク
今回、試行錯誤の末、分類のフレームワークとして2つの指標による2軸平面上での分類にたどり着きました。その指標は、VR空間が新たな可能性を生む原動力…つまり「現実とはちがう自分になれる可能性」と「匿名性」から導かれたものです。
このPDRSとPIという指標で「メタバースの住人」の心理的スタンスを8類型に分類したのが下の表です。
造語だらけの図にさぞかし困惑されたと思いますが、順に説明させてください。ここからこの8類型を、VR空間における「個性化」の方向性によって3つのグループに分けて説明していきます。つまり、
①現実の自分とのペアリング
②バーチャルな個人化
③ロールプレイ
の3つです。
◇グループ① 現実の自分とのペアリング
1つ目が「現実の自分とのペアリング」です。
VR空間内での「初期アバター」は無個性であり「匿名アカウント」の領域です。そこで多くの人は、既に様々なゲームやSNSで行われているように、アバターをカスタマイズし、自身を差別化しようとします。それはアイデンティティを確立しようとする人間の本性に根ざす行動です。
こうしてまず人は「アバター」の領域に移行します。
問題は、この「アバター」領域からの「分化」です。
いわばVR空間での自己が、どうアイデンティティを発展させていくか。その方向性が、ここで3つのグループを分けます。
その分岐点が、アバターを現実の自分に似せるか否かです。ここで現実の自分を模すことを選ぶ群がグループ①:現実の自分とのペアリングです。
これはVR空間の自分と現実世界の自分をイコールで結ぶ行いであり、VR空間に付加的な要素をあまり見出さないスタンスであることを意味し、PDRSが小さい=図左側にこのグループが位置することと対応しています。
そして、このうちVR空間の自分と現実の自分を結びつける傾向がより強い人は「アバター」の領域から「実名アカウント」の領域に移行します。
現在のSNSではハイリスクな実名アカウントは著名人以外は避けるのが一般的ですが、例えば完全実名制をとるFacebookはまさにこの世界であり、Metaが想定しているのもおそらくこうした実名アカウントによる現実と結びついた、現実の拡張世界としてのメタバースでしょう。
なお「アバター」「実名アカウント」とも、この段階まではアバターを乗り換えることに対して抵抗はありません。なぜなら彼らのアイデンティティは仮想空間のアバターには関係なく、現実世界にこそあるからです。
しかしその状況が変わるのが「デジタルツイン」の領域です。
現実の自分をスキャンした可能な限りリアルな写し身としてのアバター、現実の肉体のコピーをメタバース世界に生み出す。こうしたVR世界の自分と現実の自分の同一化の極地が「デジタルツイン」です。
この状態ではメタバースは極めて現実世界と近く、「これが自分の体」という意識がVR空間でも芽生え、他のアバターはハロウィンの仮装のような「戯れ」である意識が強くなるでしょう。
「アバター」「実名アカウント」そして「デジタルツイン」。
いずれにせよVR空間の自己は現実世界の分身に過ぎず、アイデンティティは現実の自分に依拠します。そのためPDRSは図左端から変動しません。
しかし実名化や現実と同じ「体」を使うことで、VRと現実の自分はより強く重なります。これがPI(=その人のVR空間における唯一性)の変化として図の縦方向の移動として表れています。
◇グループ② バーチャルな個人化
さて、これとはいささか異なる2つ目のグループが「バーチャルな個人化」です。グループ①と違い、現実の自分に縛られず、VR空間の自己に新たな要素を付加するのがこのグループ②の特徴です。
まず初期アバターから「分化」するにあたって、現実の自分とは異なる姿を選びます。仮想空間の自分に新たな要素を付け加えるため、この時点で現実自己とのズレ=PDRSに差が生じ、同じ「アバター」領域でもグループ①と左右方向にズレが生まれます。しかしその差は曖昧なものです。
この領域の人たちは現実の自分に縛られないため、現実の自分に似せたグループ①側の「アバター」(左側)の人々より、色々なアバターを使い分ける傾向が強いでしょう。ただしこれはあくまでこの時点では、という話です。
多くの人はこの「アバター」領域に留までしょうが、一方で今のVR-SNSやVTuberに見られるように、この中から外見(アバター)だけではなく内面(振る舞い)をも現実の自分と差別化し、別の自分になろうとする人は定数現れます。例えば自らのアバターの外見に合わせて、現実の自分とは違う話し方や行動をするといったケースです。
時に彼らは現実とは異なる「バーチャルな自分」の名前を名乗ったり、なんらかの設定や肩書(時には非現実的な)を提示したりするでしょう。いわばそれは仮想世界における独自のアイデンティティを確立しようとする試みです。
この例として最もイメージしやすいのがVTuberでしょう。例えばにじさんじの月ノ美兎さんは、現実の自分を所与のものとしつつも「委員長の月ノ美兎」として振る舞っています。現実世界の彼女と仮想世界の彼女はたしかに同根であるものの、ある意味では別人であるとも言いえます。
その姿や肩書は、当然本来、交換可能なものであるはずです。しかしそれには強い抵抗感が生じるであろうことは、皆さんも想像に難くないのではないでしょうか?
なぜならアバターや肩書を取り替えるとおいうことは、つまり己のVR空間でのアイデンティティを捨てることに他ならないからです。これは長く使ったメールアドレスやSNSのアイコン、ハンドルネームに特別な愛着が湧き、ずっと使い続けてしまう現象とも似ています。
このようにVR空間での姿や肩書が、長く付き合ううちに自己の一部として分かちがたくなる。そんな現象が、VTuberなどではない一般の人たちにも広く起こるだろうと考えています。あたかもVR世界での在り方がもう一人の自分、現実自己の代理人であるようにも見えることから、この類型を「バーチャルエージェント」と呼ぶことにします。
こうなると、現実の自分とメタバース世界の自分にはズレが生じてきます。そのギャップにVR空間での「体」や「設定・肩書」といった情報が滑り込みます。これによってVR空間における一個人としての情報量が増えます。これは取りも直さずそれぞれPDRS、PIの増加を意味します。よって領域は「アバター」の左下方向へ移動します。
ここで、さらに極端な場合として、VR世界に存在する一個の人格として自らの存在を主張する「バーチャルな人格」という類型が考えられます。
つまり、彼彼女にとってVR空間におけるその姿こそが真の姿であり、人格もまたそのアバターと不可分にVR空間に存在します。いわば生きたキャラクターです。そして、自らの体=アバターがない現実空間にはその人格は存在しえません。これは「バーチャルエージェント」があくまでその背後に現実の自分がいるのが前提なのとは対照的です。
当然アバターを乗り換えるのは基本的に不可能であり、アバターが変わるとはすなわち他人になることと同じといえるでしょう。
もちろんそれは非現実的であり、現時点では創作的な主張です。しかしこの分析は「心理的スタンス」に対するものであり、物理的な可能・不可能ではなく「そう感じる」という主観的事実が重要です。
そも、アバターの容姿自体が一つの創作であるように、VR空間とはその根本に創作的要素を含みます。そうした虚と実が交じり合う、現実と創作の交差する領域に位置するのが「バーチャルな人格」といえるでしょう。
現実の自分とVR空間の自分はいわばよく似た他人であり、PDRSは大、つまり図上では「バーチャルエージェント」の右がその領域となります。
◇グループ③ ロールプレイ
そして最後のグループが「ロールプレイ」です。これはやや例外的で特殊です。先程も述べたように、VR空間はその根幹に創作的な要素を含み、それが最も色濃く現れるグループだからです。
VR空間である役割やキャラクターを演じて振る舞う群が「ロールプレイ」領域です。VR空間での己は舞台で演じられる「役」であり、現実の自己はそんなVR空間の自分を客観視する観客=他人です。ゆえにPDRSは最大となり、図の右端となります。
驚きかもしれませんが、現に既にVR-SNSではこのように振舞う方は実際に一定数います。VR空間の自由さと、匿名性による心理的な開放感が結実した結果と言えるでしょう。
ただここには「素の性格+ロールプレイ」(MMORPGでの騎士プレイのような)のようなタイプから、性格や言葉遣いなどを特定のキャラクターに似せて振る舞うようなタイプまで、かなり多様なスタンスが含まれます。
また「アバター」や「バーチャルエージェント」「バーチャルな人格」といった在り方にもロールプレイ的な要素は含まれ、この境界はグラデーションになっているといえます。
ただ他領域との大きな違いとして、アバターの乗り換えへの抵抗感の低さがあります。ロールプレイの場合、演技であるためVR空間でのアイデンティティは一定以上深く発達しません。それは「自分」ではないからです。そのため乗り換えの抵抗感は薄く、それを強くためらう場合は「バーチャルエージェント」や「バーチャルな人格」にシフトしつつあると考えるべきでしょう。
そしてこの創作的な在り方の極地が「バーチャルキャラクター」です。人が主体の「ロールプレイ」に対して、この類型ではキャラクターこそが主であり、そのキャラクターを演じるために個人が奉仕します。アニメにおけるキャラクターと声優の関係といえばイメージしやすいでしょう。
イメージしやすい「ロールプレイ」の例として、VTuberの中でもノラネコPが生み出したのらきゃっとが挙げられるでしょう。またVTuberであるハローキティさんは「バーチャルキャラクター」の典型例です。またキズナアイさんもおそらく当初は「バーチャルキャラクター」から出発したといえますが、その在り方は時とともに変化していると思われます。
◆余談:VTuberの分類論
さて、講釈にもやや飽きたところで、少し箸休めを。
VTuber界隈で定期的に話題になるのが「VTuberとは」というテーマです。毎度侃々諤々の議論が行われるわけですが、言ってしまえばこれは「VTuber」という言葉が既に多義語化していて、それを解きほぐすのが難しいためだと思います。
実を言えば、本稿の分類論は元々この「VTuberとは」という考察から発展したものです。そこでせっかくなのでこの分類論を応用して、世に「VTuber」と呼ばれている在り方を、その心理的スタンスに注目して代表的な方とともに図上に表してみたのが以下の図です。
赤字の領域が「VTuber」と呼ばれている領域です。ご覧の通り、ほとんどの類型にVTuberが存在していることが分かります。
(※それぞれの位置は主観的なものなので、あくまで推測である点をご理解下さい)
バーチャルエージェント:月ノ美兎さん、Gawr Guraさん、宝鐘マリンさん
現在のVTuberのメインストリームとなる領域です。生配信型のVTuberは多くがここに該当するでしょう。それは配信時間の長さのため人間的側面が詳らかになるとともに、コラボ配信等を通してバーチャルな姿での人間関係が多く育まれ、バーチャルな個としての側面が強くなるためです。
ロールプレイ:のらきゃっとさん
美少女アンドロイドのロールプレイとして活動をしている、RP勢の代表格といえるでしょう。のらきゃっとという「概念」に従って動いているため、人格的な側面は比較的薄く、PIは低めです。なおこうしたロールプレイの心理を知る上では、ノラネコPのnoteが非常に参考になりました。
バーチャルな人格:兎鞠まりさん、キズナアイさん
「バ美肉おじさん」として男性ながら美少女として活動している兎鞠まりさんなどは、性別が違うだけに一層現実の自分とバーチャルな自分は重ならない部分も多く、この領域になると考えられます。
また元々はバーチャルキャラクターとして生まれたキズナアイさんは、しかしいわば「魂」が芽生えたともいうべきか、人格的側面が強くなり、キャラクターという枠をはみ出し、現在はこの領域にいるのではないかと思います。
バーチャルキャラクター:ハローキティさん
ロールプレイよりも更に厳密な「キャラクター」という枠を持つ存在として、もっともわかり易い例でしょう。「中の人」というよりは「声優」というのがより正確です。
アバター:懲役太郎さん
懲役太郎さんは自分のリアルを前面に押し出しつつ、顔出しはしないというYoutuberの亜種ともいえます。その点で最も的確なのがこの「アバター」の領域でしょう。
実名アカウント:ガッチマンVさん
実況者として、実在の人物としての顔も知られているガッチマンさんのバーチャルの姿です。実名でこそありませんが、広く知られている名前を通して現実の肉体と結びついているという点で、ここに置くのが妥当でしょう。
デジタルツイン:バーチャルグランドマザー小林幸子さん、坪倉輝明さん
企画でバーチャルの姿となった小林幸子さんや、自らを3Dスキャンしたアバターを持ち、一般公開もしているアーティストの坪倉輝明さんがここに当たるのではないでしょうか。普通は素直にYoutuberになるでしょうから、VTuberとしてはかなり特殊な例です。
…さて、この分類は「あの人とあの人はなんとなく違うよな」という皆さんの実感と符合していたでしょうか?
こうしてみると、同じVTuberの話をしていても話が噛み合わないことがあるのは当然なのが分かります。例えば「VTuberは設定を守るべきだ」と、背景設定が核となるバーチャルキャラクターを想定して言ったとしても、設定など持たず、現実に根ざしているアバター領域の人たちからすると「何を言ってるんだ?」と感じるわけですね。
「VTuber」を語る時、この図を参考に自分や相手がどの領域について話しているのか?を考えてみると、うまく話が通じるのではないでしょうか。
◆軋轢のありか:「非現実の壁」
では本稿の分類に少し理解が深まったかな、という所で、再度分類図を見つつ、冒頭に述べたメタバースにおける「摩擦」が生じる領域について見てみましょう。
おそらく最も大きな軋轢が生じるであろう境界こそ、が下図の「非現実の壁」です。
これは先に3グループに分けて説明した中のグループ①と、グループ②③の境界にあたります。つまり現実の自分=VR空間の自分であると見なすか否か、あるいはVR空間における創作要素を是とするか否かの境界ともいえます。
現在Metaが主導しているメタバースでは、おそらくこの壁の向こう(右側)は想定されていません。またメタバースが数年内に社会に浸透すれば、この壁の向こう側など想像だにしない多くの「左側」の方がVR空間に溢れるでしょう。
一方で既存のVR-SNS…「メタバース原住民」のメインストリームは、むしろこの壁の向こう側です。ここに大きな乖離があり、だからこそVRChatユーザーはMetaのHorizon Worldsを見て「なにかが違う」と感じるのだと思います。
もっとも、この「非現実の壁」に実体はありません。一定以上自由なアバターカスタムさえ実装されれば、超えることは容易です。
問題はむしろ、心理的・社会的な障壁にあります。平たく言えば「常識」です。今まで「右側」の世界であった「メタバース原住民」が、いわば現実そのものである「左側」の世界と接する時、その振る舞いは現実の常識によって縛られます。常識とはそういう類のものだからです。
しかし「非常識」そのものである「右側」の世界の住人にとって、それはある意味では死と同義です。
しかしいつか確実にやってくるそのXデーは、FacebookがMetaと名前を変えたことで大きく近づいたものと思われます。
では、他ならぬ私もその一員である「右側」の世界とその住人たちはどうなるのでしょうか?
◆分断される境界と、移ろう境界
こうした「非現実の壁」での衝突の一つの帰結が、境界により世界(メタバース)そのものが分断されるという形です。
つまり「右側」と「左側」は別々のメタバースとして…例えばHorizon WorldsとVRChatとして、住み分けがなされる形で安定するという未来図です。そしてそれぞれの世界を異なる「常識」が支配することになります。あるいは世界は様々な価値観の「壁」に合わせてさらに細分化し、それぞれの世界の「雰囲気」に合ったバーチャルな在り方が選択されるのではないでしょうか。私達が現実でTPOに合わせて振る舞うように、VR空間における精神的スタンスもまた使い分けの対象になるのです。
この相似形を、現代のオンライン空間における一つの世界ともいえるSNSに求めることができます。実名制であり良くも悪くも現実の延長であるFacebook。Anonymousな匿名空間である4ch、5ch、reddit。あるいはその中間にあって比較的スタンスが分かれるTwitter。
それぞれのSNSに「雰囲気」があり、住人たちの色合いも違うでしょう。分立するSNSはメタバースの未来の形を暗示しているのかもしれません。
一方で、こうした分断はメタバースの大局には逆行するものです。
メタバースとは現実と同じように世界という一つのプラットフォームにあらゆるものが統合されることにこそ意義があります。事実、VR空間には既に様々なアプリという形で、映画を見る小世界、ライブを見る小世界、交流し会話する小世界、ショッピングをする小世界…といった個々の要素が生まれています。
しかしそれらが結合し、一つの大きな「世界」になって巨大な利便性が生まれることで、はじめてメタバースは意味を持ちます。
つまりメタバースには文化的な反発による内圧と同時に、経済性・利便性による「統合」への外圧が存在し、前者を後者が上回り「一つのメタバース」へと進む可能性もまた十分にあるのです。
事実、私達の世界はこの百年あまりで数々の地域・国家という「小宇宙」から、経済的合理性と利便性の圧力によって「グローバル社会」という一つの世界になってきたのですから。
その時こそは「右側」の世界の住人にとっての冬の時代が訪れるかもしれません。現実にはあり得なかった何かが許容される世界が、その現実そのものとかした「左側」の圧力に侵食されていくわけですから。
私にできるのは、こうして文章でそんな「右側」の世界の存在を広く知ってもらい、そうした在り方を多くの人が認めてくれるようにお願いすることくらいです。
◆終わりに:メタバースの未来とその可能性
…もっとも、そうした時代はそう長くは続かないでしょう。
VRが社会に浸透し、多くの人がVR空間の可能性に触れることになれば…なりたいものになり、有りたい姿であり、現実から解き放たれる魅力を知れば、いずれ少なからぬ人が「壁」を超え「右側」の世界へとやってきます。
それはゲームでアバターを作る時、現実の自分に似せるのでなく、自分の理想の姿を模すのと同じ理由です。理想の姿、理想の人格として振る舞うことを一度たりとも夢見ない人はいないと思います。今の黎明期のVR-SNSの姿を見れば、それは高い確度で訪れる未来です。
その時、常識は変わり、VR世界における在り方の変化は誰もが持ちうるものとして、非現実の壁は薄らぎ、やがて消えるでしょう。常識の壁は多数の人によって成るがゆえに強固であり、一方で人によって成るがゆえに時とともにたやすく崩れるのです。
今現在は、現実世界が本物で、VR空間は虚構の作り物という二項対立が私たちの常識です。
しかしやがてVR空間が現実社会の一部となり、それを多くの人が「本物」であると信じる日がくれば、現実と虚構の境界は失われ、自由なVR空間で現実の属性から開放された望むままの在り方を選ぶことが…今の「右側」の世界が当たり前となる日が来るでしょう。
その時、「バーチャルエージェント」や「バーチャルな人格」のようにアバターこそを一つの己の身体とした「仮想人」のような在り方はぐっと数を増すでしょう。やがて普段からバーチャルな姿と名前で生活したり、その姿で仕事をしたり、今まで考えもしなかった新たな可能性を開く…それは決して夢物語ではないと、私は思います。
そして、そうしたいろいろな「バーチャルな在り方」が入り交じる世界では、きっと今以上に一層相手の「バーチャルな在り方」を理解し、尊重する必要が出てくると思います。
そうしたちょっと先の未来、新しい時代の指針として、この文章が記憶の片隅にとどめられたのなら、心から嬉しく思います。
バーチャル世界の未来に、幸多からんことを。
思惟かねでした。
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