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VTuberという肩書を外してみよう。

私がVTuberという肩書を名乗り始めてから、もう2年以上になります。おかげで私を目に留めてくれた人知り合えた人友誼を結べた人も少なからずいます。
私自身、本来はnoteに引きこもっていた一個の物書きだったのが「VTuber」という魔法の言葉に背を押されて、気づけばYoutubeでクイズ大会を主催したりニュース番組をやってみたり、ややもするとかつての自分からは想像できない遊びをしているのに気づきます。

毀誉褒貶はあれど、常に面白いネタを探し、アクティブに交流する文化を持つVTuberには、確かに人をエネルギッシュにさせ、思いもよらぬ挑戦への活力を与えてくれる、そんな力があるのだと私は思います。


けれどその一方で、VTuberという肩書のために見えなくなっていることもあると最近思います。
それは例えば、自分の配信のアナリティクスを眺めている時や、あるいはTwitterのフォロワー数を眺めている時。ふと自分は「誰」と向き合っているのだろうという思いに囚われます。

私がしていることは、確かに人に見てもらうことを意図した活動で、同接やフォロワーの数がその指標なのも事実です。
けれど私はこの2年の間に学び、実感してきたはずです。実際に私のnoteや配信を見てくれて、時に声をかけてくれる人は、「1人」「2人」と数える無貌の人ではありません。名前のある一個の個人であり、私に興味を持ってくれた理由や思いがあります。そうした一人一人と言葉をかわし、互いを知ろうとしてきたからこそ、今こうしてnoteを読んでくれるあなたのような人がいる
たとえ「VTuber」や「noter」という肩書があっても、相手を一個の人として見れない人間はいずれ多くを失うだろうし、少なくとも私は自分がそうなったら軽蔑すると思っています。だからふと「数字」を見てしまう自分のことが許せなくなります。


目の前の一人の人間に真摯に向き合うこと、それは普通の人間なら誰もが当たり前にしていることです。
けれど、例えばVTuberのように、不特定多数に向けてコンテンツを放射する人間は、たくさんの「誰か」と向き合っていることを、誰とも向き合っていないと錯覚してしまい、ともすれば人間らしい心を失いがちなのかもしれない。そう、自戒を込めて思います。

けれど、私が安堵したことがあるとすれば、私の何十倍ものフォロワーと何百倍のリスナーがいる、にじさんじの家長むぎさんが同じ思いを言語化したnoteを世に出してくれていたことでしょう。

人の存在を忘れるようになった。友人を増やすために配信を始め、少しずつ、友人といえるリスナーのみんなができた。その友人たちの顔ぶれは目に見える部分だけでも、少しずつ変わっていく。
>そしてたまに、久し振りに顔を見せる友達がいると『あ、この人いたなあ、忘れてた、この人は〇〇が好きで、〇〇配信からむぎを知ってくれて....』のような感じで、その人の事を思い出す。

>『リスナー』という大きな生き物が代謝をするかのように少しずつ入れ替わっていく、という認識はしたくない。ぺりぺり、と皮膚が剥がれ落ちるように変わるのは嫌だ。むぎの目では、代謝の、細やかな息遣いは認識できない。ひとりひとり、友人として認識していたい。難しい事だがひとりひとりの手を握れたら良いな、と思う。そればかり言っている。言っているけれど、限界があるのだろう。自分が多くの人に囲まれた幸せに麻痺しているんだと思う。

数千人、数万人というリスナーを抱える彼女が「できればひとりひとりの手を握りたい」と言葉するその覚悟を思うと、胸がつまります。と同時に、その重みがほんの何百分の一の我が身を思うと、なにくそという思いも感じるのです。


VTuberという肩書を外して一個の人間として我が身を俯瞰してみる。

現実世界の体で、自分が面白くもない雑談に一人興じているとして、それに傍らで耳を傾けてくれる友人がどれほどいるでしょうか。2、3人もいれば上等。10人もいれば逆に心配になって「何が楽しいの?」と聞いてしまうはずです。
あるいは、どれだけ頑張って何か企画を立てたとしても、はたしてその企画に何人が来てくれるでしょうか。普通は数人集めて旅行を企画するのが関の山でしょう。

それが現に、ともすれば何十人という大それた数の人たちがYoutubeに集まってくれる。それがどれだけとんでもないことで、そしてありがたいことか…。それが、VTuberという肩書のせいで見えなくなってしまうのは、怖いことです。
そういう、一個の個人と個人で向き合う人間関係の「重い」手応えを、忘れたくないなと思います。


VTuberという肩書は、何かをする勇気や良い出会いを与えてくれます。けれど、それは人の「重さ」を忘れて良い免罪符にはならない。してはいけない。
だから、たまに「VTuber」という肩書を外してみよう。自分を見つめ直してみよう。思惟かねはVTuberだけれども、VTuberは思惟かねのすべてなどではない。所詮はただの肩書でしかないだから。あなたも私も、同じ一個の人間なのだから。

痺れた爪先で歩くと痛がゆい。まだ、麻痺しきっていない。
:家長むぎ 『麻痺』2021/01/07

この文章を読んでくれたあなたに、一個の個人としての思惟かねから、心よりの感謝を。
また、お会いしましょう。

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この他にも技術・政治・科学ニュースの解説や、VRやVTuberに関する考察記事を投稿しています。お時間あればぜひごらんください。

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今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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