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『金子みすゞ童謡集』を読んだ。その中の「木」という詩が印象に残った。


お花がちって
実がうれて、
その実が落ちて
葉が落ちて、
それから芽が出て
花がさく。
そうして何べん
まわったら、
この木はご用が
すむかしら。




金子みすゞさんの詩は優しさや希望に溢れたものが多い印象だから、
この詩を読んだ時にちょっと違和感を感じた。
「ご用がすむかしら」の部分が、なにか悲しく感じられたのだ。
ご用がすむ時というのは
きっとこの木が朽ち果てる時で、それは死を意味していて、
私は、
生きていることに「もう疲れちゃったよ」と言っているように感じたのだ。

しかし、
実際の自然の木を見ると、またこの詩の感じ方が変わってくるのだ。
大自然にある大木は
「もう疲れちゃったよ」とは言っていないように感じるし、
人工的に植えられて窮屈そうな木は、そう言っているような気もする。

人も植物も、「ご用」、
つまり役割であったり生きている意味みたいなものがあるから生きていて、ご用がすんだらいなくなる、ということなのだろうか。
もしくは、ただ、生きていれば
日々の同じような生の巡りがある、ということか。


私はこのnoteを
「20年以上前に兄を自死により亡くした経験がある者」
として書いているので、
この詩を読んだ直後の感想が
そういう解釈になってしまったのかもしれない。




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