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カルチャーのファッション性について

幼い時から生活の端に、あるいは中心にSNSが存在している世代が今、10代、20代と世の中の主成分たる年代になっている。

それと同時にやはりカルチャーのファッション性は高まっているように思う。

読んだ文庫本を左手で持って広角レンズで写真を撮る。それをTwitterに上げる。音楽のプレイリストをスクリーンショットし、それをマッチングアプリのアイコンにする。仲良くなり始めた友達とお互いの今まで見た映画の半券を並べて見せ合う。

ファッション性が高いと言うのは、けしてカルチャーが形骸化していると言う意味ではない。

個々人が好むカルチャーがそのままその人間のレッテルになるような、摂取しているカルチャーがそのままその人間のアイデンティティとして周囲に認識されるようなことが、至極当然のようになっている。それをファッション性が高いと思っている。




例えば最近よくあるTwitterの構文としては、「軽音サークルに入ったけど周りの人は〇〇や〇〇を聴いている人ばっかり!もっと△△や△△を聴くような人いないの?」みたいなものだ。

他人が何を聴いていようと何を好きであろうと、その他人がどのような人間かは実際に関わってみないと分かり得ない。

が、芸能人じゃなくてもSNSで簡単に自己を発信でき、そして他人のそれを享受するのが当たり前となっている昨今は、「〇〇を聴いている人はこういう人間だ」などとプロトタイプ的な考えが浸透している。溢れかえる情報の中で皆が無意識に統計を取り、この音楽が好きな人にはこんな人が多い、あの音楽が好きな人にはあんな人が多い、などと振り分けているのかもしれない。(もしかしてこれはTwitter民だけ?わたしがTwitter大好きマンだからそう感じるだけ??)


ある程度似たような人間が似たようなカルチャーを好みやすいため、そうしたプロトタイプ的なものが発生するのも自然ではあると思うが、中にはそのプロトタイプを意図して「こういう人間だと思われたいから、この歌手のこのCDジャケットをSNSに上げよう」と考える人も正直多いと思う。卵が先か鶏が先か。

これは自分のアイデンティティの確立の材料として、カルチャーをファッション化する営みとも言えるのではないか。

また別の観点で言うと、憧れる人間への投影でカルチャーをファッションにすることもあるだろう。「この人おしゃれだなあ、こういう漫画が好きなんだ。私もおしゃれだと思われたいし、好きな漫画を聞かれた時はこれって言ってみよう。」
そんな具合に、憧れの人の好きなものを真似てみて、自分のアイデンティティを憧れの人に寄せていく。

逆も然りで、本当は好きなカルチャーがあるけれど、「このカルチャーが好きな人って〇〇だよね」と決めつけられるのが嫌だからあえて好きなカルチャーを言わない。そんなケースもままあるだろう。



さて、では如何してカルチャーとアイデンティティが強く結びついているのだろうか。

完全に独自の偏見だが、SNS世代は共感への執着と承認欲求が強いからではないかと思う。

同じ曲が好きな人と繋がって共感したいしされたい。コアな映画を観ている自分が特別だと思いたいし思われたい。

SNSを通じて、なんてことのない人間のなんてことのない日常がいともたやすく共有される時代。自分とそう遠くないであろう人間のリアリティあふれる生活が間近で観られる時代。

だからこそ、どこにいるかわからない、遠いようで近い画面の向こうの誰かと共感し合って孤独を打ち払いたい。同時に、自分とそう遠くないであろう人間が時折大注目を浴びる瞬間を目にすると、「自分も特別な何かとして承認されうるのではないか」と淡い期待も抱く。

そんな共感への欲と承認への欲が、現代の若者が使いこなす「ファッション性の高いカルチャー発信」へとつながっているのではないかと思う。


※そしてここからは余談


好きな音楽が似ている人って、好きな芸人や好きな漫画まで似ていたりするよね。運命かもなんて思うよね。それが心の奥底からの好きなのか、アイデンティティ確立のためのファッションとしての好きなのか、見分けに困るよね。

でも相手が好きだと発信しているカルチャーが実はファッションを目的にしたものだとしても、それって結局は目指すアイデンティティが近いってことなのかもね。

と思ってマッチングアプリやってた時は音楽のプレイリストいいな〜と思った人と会話してたりしていました。
どっこいぜ〜んぜん話し合わない!やはり他人のアイデンティティをカルチャーで推し量るのはやめましょう!

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