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ミーム化という防衛機制

ミームとして現代社会に普及している言葉は実に多い。推しだのエモいだの沼だの、平生からインターネットにどっぷり浸かり込んでいない人々でも、いつの間にか日常生活にミームをすっかり順応させて使いこなしている。

ミームの便利なところは、個々の主観的な事象や感情を抽象化して多勢に平易に理解しやすく、かつポップに伝達できるところだと思う。



大それた目標も展望も学びたいこともなく、ただ山に囲まれた地元では少しばかり勉学もでき、周囲から将来を期待された事実に自分も「何者かになれるであろう」と何がしかの全能感と高揚を覚え、国から金を借りながら進学をしてみたはいいものの、持て余した若さのやり場がわからず、覚えたての酒とサボタージュ、女の肌に無我夢中でしがみつくばかり、気づけば勤勉さとは遥か遠いところに漂流して、戻ろうと足掻いても一度覚えた怠惰という蜜は信じ難いほどに甘く、踏み出そうとする足にねっとりと絡みついて引き戻す。いつしか金にも時間にも単位にも社会にも追われるばかりで、こぼれ落ちないようにギリギリのところで保つことに精一杯である。


このような主観的事象を、ミームであれば「限界大学生」と表すことができる。


あの子みたいに可愛くなくて、あの子みたいに愛嬌もなくて、あの子みたいにみんなが憧れるようなセンスもない。けれど彼が気になる。自分だけのものとして彼を愛でたい。しかし自分が好きになったところで、好きだと伝えたところで、彼が見向きをしてくれるとも思えず、見向いてくれるまで努力をする覚悟も、傷つく覚悟もない。しかしあわよくば彼にひょんなことから自分の好意が伝わり、その好意が実ればいいと思っている。しかしやはり傷つくのが怖いので、伝わってほしいとも思わないかもしれない。しかし彼以外の周りにはなんとなく、牽制というわけでもないけどなんとなく、自分の好意と、自分が彼を選ぶ選球眼を知らせておきたい。


このような主観的事象を、ミームであれば「推し」と表すことができる。


好きな男には恋人がいた、しかし男は酒に酔った自分にいとも容易く手を出し、まるで恋人のように甘く言葉を囁き、その夜が嘘のように、しかし永遠に続くかのように抱きしめてくる。朝になれば自分と向き合っていた男は壁を向いて自分に背中を見せ、身支度をして出る自分に白々しく手を振る。焼けるような昼下がりには男からの音沙汰はなく、鈴虫が鳴くような夜にはふと連絡を寄越されて家へと招かれる。そして朝になればまた、違う時間に目を覚まして同じ朝食を食べることもなく、浮腫んだ足でヒールを履いて自分だけが男の家を出る。周りの知人は「そんな男はやめておけ」「遊ばれている」と釘を刺し、自分でも先のない線路の上を裸足で歩いている感覚は痛いほどわかっている。自分の好意を闘牛士のようにかわし、それでもまた赤い布を眼前で翻す男に腹立たしさを感じる。ただ、それでも、ひなびた下着姿で男と啜るカップラーメンの味を、寝息を立てる男の柔らかい襟足を、自分の言葉に何も言わずに笑って手を握ってくる男を、モルヒネのように幾度となく欲してしまう。


このような主観的事象を、ミームであれば「沼」と表すことができる。






実に便利である。

具体性を持たせて主観的に考えてしまうとあまりにもえぐみが強く、周囲に表現するのも憚られるような事象も、燃えるように、あるいは黒く渦巻くように湧き上がる感情も、ミーム化してしまえばひどく陳腐でよくある笑い話になる。

そうして人々は、「俺マジで限界大学生なんだよね」「いい加減沼から抜け出したい」「はあ〜まじで〇〇くん推しすぎてつらい」などと笑いながら話すことで、自らの身に起きている悲しみや葛藤ややるせなさを、キャッチーでポップなコンテンツとして昇華できるのだ。



ただこの便利さは同時に怖さにもなると思う。


道化を演じて、主観的な事象を力技で客観的に面白おかしく享受できるコンテンツに落とし込んで、自らの黒く澱んだ蟠りからなるべく目を背けるようにしていると、その影はいつしか足音も立てずに怪物となってにじりより、自分を蝕むかもしれない。

そして人差し指で押すような小さなきっかけで、そのダムが決壊するかもしれない。



なんてことを、ここ数日のネットでの騒動で考えていた。

目も当てられないような醜い事象でも、人に話したら鼻で笑われるような事象でも、社会的に見て恥だと罵られるような事象でも、そこにあるのは自分だけで、その景色と背景を見られるのも自分だけで、それに対して感じることは自分1人だけのものであって、それを他者が侵害できる権利はただの1ミリもないのだから、たとえ面白おかしいコンテンツにならなくても、そのままも大切にしてやったほうがいいのだろう。



個人的具体的事象をミームへと一般的抽象的に昇華すること、それは自分を守るための防衛機制とも呼べるのであろう。適宜活用したい。しかし昇華前も昇華後も自分の身に起きた事象と感情であることに変わりはないことを理解して大事にしたい。

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