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心に絆創膏をぺたり。

わたしは、泣いていた。
いい大人が子供のように、ぴえーんぴえんと。
大人だって泣くことはある。
人目も憚らず、と言っても車の中だったので憚る人目と言ったら夫だけ。

死ぬこと以外かすり傷、なんて最初に言ったのは誰だ。

かすってかすって、またかすってしまった傷はわりと深い。
ぱっくり割れた傷口から、青い血が噴き出しそうだ。



隣にいる夫は最近、わたしの運転が上達しないことを憂いている。
下手くそなことはわかっているはずなのに、シートを深めに倒してふんぞり返っている。
自分だけで判断しにくいことを聞くと、だるそうに答える。

「そんなことでいちいちぎゃーぎゃー騒がないで」

騒ぎたくて騒ぐ人なんているんだろうか。
今回わたしが騒いだ理由といえば、対向車がこちらの車線にはみ出して来たからだ。
予期せぬ不安ごとは、突然やってくる。
わたしにとっては、そんなことが大事なのに。

運転している人の好きな音楽を聴けるというわたしたちの約束事はどこへやら。
結局、あんたの好きなものを流しているじゃないか。
しかも、大きな音はやめてと再三言っているはずだった。なぜ、わたしの願いを聞いてくれないのか。

目的の激安の殿堂のお店にいくためには、
狭い道を通り、見通しの悪い十字路がいくつかあって。
それを超えたら今度は大きな交差点がある。
矢印が出るまで右折が出来ない、大の苦手な交差点だ。

あそこを右に曲がれば…もうすぐ目的地だ。

立体駐車場にゆっくり登る。あえて入り口から遠い場所で、駐車の練習をするにもどうしたって斜めに停まってしまう。

「なんで出来ないんだろう」

このセリフをそっくりそのまま、返したい。

「ね。なんで出来ないんだろう」

わからないことすらわからなくて、頭で理解していても行動が伴わない。

めちゃくちゃ注意しているはずなのに、施錠をせずにその場を離れてしまったこともある。

車の幅がわからない。ハンドルの動きもわからなければ、バックモニターなんて宝の持ち腐れだ。
これを見ろ、これに慣れろ、と言われても
逆にわからなくなるからわたしはもう見ない。
ミラーしか信じない。

実を言うと、運転している途中で意識が違うところに飛んでいってしまうことがある。
これは明らかにあぶないので、行きそうになったら引き戻す。

そもそも、こんなにも運転が苦手な人は他にいるのだろうか。

年末年始で、少し乗れるようになった気がしていたのは幻でやはりわたしは運転が苦手というより不向きなのではと気づき始める。

きっとわたしには足りないパーツが何かしらある。それに気付けただけでもよかったのではないのか。

何かあってからではもう遅い。何もないうちに、わたしは運転が上手くなりたいと言うある種の執着のようなものを手放す時が来たのかもしれない。

乗ることも、乗らないことを選ぶのも人生。

乗れないのではない、乗らないのだ。

愛と勇気と、わたしの決断が世界を救うこともある。

来世のわたしにバトンを渡す。次は昨日のわたしの分までがんばれ。

出来なくて流した悔し涙が、来世のわたしを動かすかもしれない。

なんて、宇宙レベルで考えたらゴミみたいな悩みを考えながら

買ってきたばかりのジャムマーガリンのパンを泣きながら口に押し込むように食べたら、ちょっと塩っ気が強くなって逆においしかった。

流した涙は無駄じゃない、少なくともこのパンの味にはね。

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心に貼る絆創膏はいつも携帯していよう。


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