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息の漏れる(ねくらの)春。

京都タワーのスタバにいたら、Wi-Fi接続に困っているイタリア人に声をかけられ、接続をしてあげることに(いつも思うけど、スタバWi-Fiって、外国人にはなんか使いにくそうなかんじ)。すると、その友人のスマホも接続を...と連続で、Wi-Fi職人の道をたどる。

ちょっとすると、また近づいてきて「このお店知ってる?」と言われたのが、SOU・SOUで、ああ、ぼくも好きなんだよねデザインが(風呂敷使ってるし)、あと友人が働いてるなぁ、と思いつつ、Googleマップを駆使して道案内をする。

自分の知らない人が、自分の知ってる人の何かを目的に動いてるのなぁと思うと、なんだか不思議な気分だ。

さて、いつになっても人がわんさかいる京都なのだけど、桜を求めて立ち寄っている人ばかり。ただ、「見ごろだから」という理由で、‟そういうときだからそこに集まる人”というのは、やはり苦手で、ミーハーな欲望が垣間見え、群がっている様子をみると、多少の気持ちわるさを感じる。

春は、いつも憂鬱だ。華やかな季節だからこそ、その華やかさのそばにある物や事、そして人を見つけると、その真逆の根暗な自分を浮き彫りにされる気がして、ふぅぅ、、と息が漏れてしまう。

目にはやさしく、気候も抜群に好きだが、気分は優れないのが、ぼくにとっての春。

...といっても、春だから、季節の変わり目だから、というわけでないようで、わりと年がら年中、こういう感覚なのは変わらないし、「憂鬱と一緒に生きてゆく」はさすがにもう慣れているわけで、むしろ、そういう自分をおもしろがろうという前向きな気持ちすら生まれているのだがら、人間というのはへんな生きものだよねぇと思うわけです。

和歌山、奈良での(出張)カクテルワークを終え、京都で髪を切って、これから鳥取に戻って、本格的に、自分の居場所、家(アキナイイエ)づくりがはじまる。憂鬱をエネルギーに、意識が高いでも低いでもない、”意識がある系”あるいは”生きながらえる系”で30歳を前に新たな春を迎える。

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