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正義に耳を傾ける

読書は好きなほうではなく、必要に迫られたときにだけ本を手に取ってきた(映画鑑賞も同じことが言える)。「毎月〇冊の本を読んでます」という人に出会うとすげぇって思うし、”本弱者”ため本の虫と呼ばれるような”本強者”がちょいと苦手だ。

いや正しくは、本が好きすぎて、本を読まない人に「○○を読まないなんて人生半分損してる」だの言葉を突き付けてくるような人にムムムと感じちゃうわけで。

「あんたの人生に今後関わるわけでもないんだから、そんなの放っておいてくれ!バッキャロー!!」とつい喧嘩っ早いぼくは口が滑りそうになる(お恥ずかしいかぎりで......)。

だけど、ある作品の素晴らしさをマニアックに押しつけがましく説明するよりも、その人の”今”をヒアリングしたうえで本がどう役に立つのか、そのおもしろさを伝えたほうが本を手に取ってみたくなる。

きっと、本を好きすぎるからいけないのだ。だれも悪くはない。自分が「好き」だったり、信じる正義がつよすぎると、相手から煙たがれることある。それは相手のなかにある正義からすれば、悪に映ってしまうからだろう。

「戦争が無くならない理由はなんだと思う? それはな、人間の中に『好き』と言う感情があるからだ。そんなものがあるから、好きな物を他人から奪ってしまう」
「『LOVE&PEACE』という言葉があるけど、LOVEさえなければ、PEACEなんだよ」

(飛躍しすぎがしれないけど)タモリさんが「愛があるから戦争が生まれる」という考えに近しいような気も。

正義の反対は悪ではなく、正義の反対はもう一つの正義だというのは、本との関係性を巡る対立から学んできたことだし、本に限らず、どのジャンルにおいても通ずることでもある。

もともとぼくはお酒があまり好きでなく、酒好きの人の話って懲りすぎて/通ぶっててめんどくせぇと思っていた。だけど(カクテルのある空間が好きで)バーテンダーになってから、興味が微塵もなかったお酒自体のおもしろさを先輩やお客さんから教えてもらえた。「仕事だから」ってのはあったけど、ひたすらに「聴く」ことを覚え、その大切さを血肉化できたのは本当ありがたいことだった。

なにか毛色の違った正義に出くわしたとき、自分のなかにある良し悪しはいったん手放しみて、相手に耳を傾け、その話をおもしろがれるような人であること。相手のなかにある正義や、それが根付いた理由を知れれば、どんなに嫌なやつでもちょっとは好きになれたりする。

そういうのを、いつなんどきも、どんな立場になってもできる大人であれたらなあとは思う。とはいえ、これっぽっちも相手の話を聴こうとしない”お耳遮断マン”に対しては、「俺の話を聞けえぇぇ!」とぶちかましてやろうかしら。

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