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インターネットにいなくても、いるんやで。

「Instagramをやってない人は、存在してないようなもんだ」

そう考える若者はわりといるのかもしれない。細かいことをいえば、「やってない」とは「Instagramアカウントを持ってない」のことを指すし、人によっては「アカウント持っていても更新していない」と捉えることもあるだろう。

探求学習の一環で、中高生とのやりとりが増えるなか、「LINEですらあまり見ていない」学生がいることを知り、さらには「InstagramのDMしか見てない」という子すらいる。コミュニケーションツールは刻々と移ろっている。

ツールが変わるだけでなく、「一文は長すぎちゃいけない」「”。”をつけない」などぼくらの感覚では???すぎるカルチャーがあり(というか読解力の低下なのか、より簡素化されてる傾向があり)、下の世代とやりとりするときの注意点はかなり増えた。それはそれで面白く、言葉の変容はその時勢の象徴だと思う。

さてさて、移り変わるのはしょうがないとして、観察し続けたいことではある反面、冒頭の「Instagramをやってない人は、存在してないようなもんだ」問題について思うことがある。というか、もはやこれはよくないのだけど、説教めいたものになりうるし、ウザいのだけど、知るかそんなもん。

見てる世界が狭すぎるんだよ。

Instagramにしろ、Twitterにしろ、TikTokにしろ、YouTubeにしろ、SNSで君たちが見てる世界というのは、ごくごく狭い、世界のたった一部でしかない。それが「=社会(のすべて)」と思うのは、もったいないよ。だって、ネットに存在してなくても、クソほどに面白いもんなんていくらでもある。むしろ、”あえて情報を閉じてる”コンテンツは結構あると思うよ。

自分が勝手に「存在してない」してるだけで、インターネットという領土にあるものだけが存在だと思い込んでるだけで、電波の通じないところで行われてる営みが必ずあり、その世界の片隅にあるものが実は君にとって死ぬほど大事なものになるかもしれない。すぐに見当たらないとしても、見つけるべくあちこちあーでもないこーでもないと最低一度くらいはうろうろ探しまわってみてほしい。「ある」という可能性を遮断しないでほしい。人がデジタルに飲み込まれてるダサい社会を決して「善」と思わないでほしい。

「見えないものを見ようとする」

漫画家、故・水木しげるが生前に言っていたことは、べつに「妖怪」だけの話じゃない。つねに揺れ動く時代のなかで、見えにくかったり、隠蔽されるものが溢れる社会で生き抜いていかなくちゃいけないからこそ、水木さんの言葉(の解釈)についてつい考えてしまう。

いないと思ってるだけで、ほんとはいるんやで。それに、その存在が見えるようになったら、日々はもっと楽しくなってくはずなのよ。


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