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わかりやすさは消費を多産する

テレビ番組や地域PRを眺めているとよく目にするのが「日本一!」とか「日本初!」というような文言。正直なところ、日本一だから日本初だからなんなんだ?と思ってしまうのだけど、世間はその「一!」とか「初!」をだれよりも早く手にすることを大切にしているみたいだ。まあそれもそれで基準がアホらしい。

その他にも「元祖~」とか「~発祥の」とか売り込みたい文句はいろいろある。その人/物/事/場所をわかりやすく伝えるにはいい言葉なのかもしれないけど、その価値をそういったしょうもない言葉だけで判断させようとする。もちろん、しょうもない言葉に乗っかる人が多いから成り立つわけだけど。

情報を受け取る側のリテラシーを責めようは十分にあるけど、それらを発信するメディア(手法)の責任のほうが大きいとは思う。特に、大きな媒体になればなるほど、「わかりやすさ」を重視するので、報道するものの特徴をキャッチーにしようとする。無理くりにでも。だから、特に、嘘にならないギリギリの文言をつくる、そして、煽るわ、煽るわ、ひたすらに消費を促そうとする

それが商売だからと言ってしまえばそうなのかもしれないけど、その報道される側の立場としてそれは本当にいいことなのだろうか? ものが売れるからいいのか(メディア側は「ものを売る手伝いをしてやってる」と上から目線でことを考えていやしないか)? 

ただただ消費を生みたいだけなら、ものが売れるのは万々歳でいいのかもしれないけど、関係性だったり、想いだったり、消費以外のことを大切にしている人からすれば、そういったメディアの発信は邪魔くさくなることもあるだろう。

わざわざ平田さんのnoteに書かれたことは、この”消費以外のこと”を訴えているように思う。実際に、ぼく自身も取材をするなかで話を聞くなかでも、受ける取材と受けない取材を選んでいる人もいて、彼らにはそれなりの哲学があることを知った。単にものが売れればいいわけでなく、売り方(売るまでのプロセス、どういう人にものを届けるのか、いい意味でのお客さんの区別)を大切にしている人もいるのだ。

「わかりやすさは消費を生むための最高のスパイスである」

これはぼくの考えでしかないが、世の中、わかりやすいものだけが正義でない。複雑でわかりにくいものならではおもしろさがあるし、場合によって、人生のヒントもその曖昧でアンニュイなものに隠されていることだってある。

まあ難しいのが、ある程度のわかりやすさがなければ商売として成り立たないのはあるわけで、「わかりやすい部分」と「わかりにくい部分」をしっかりと分別して、それを定置網漁のように奥行を持たせて、「入り口はわかりやすく奥に進めば進むほどわかりにくい」といった奥行を持たせられるのが一番いいのではないかと思う。

多少なりともメディアに関わる側としてやってきたことを糧にしながら、自分がどんな商いづくりができるのかは、自分が一番関心のある自分の未来の姿だと感じつつ、今日は今日とて朝のコーヒーをすするわけです。ああ、ちと苦すぎたかも。

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