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「わかろう」としないこと。

「わかってからじゃないとはじめられない」

そうやって自分を条件(ルール)で縛りつけても、たいていの場合は、その枷を解けぬままに、何もはじめることなく年老いていく。かなしい”人生あるある”なのだけど、「わかる」までの道は遠く険しい。そもそもどこまで理解できれば「わかる」と言えるのだろう。

だったら、「わからない」からはじめちゃって、「何がわからないかがわかる」ようになってから、「わからないをわかるに変える」ことをやっていけばいいのではないか。

ようは、ゆっくり小刻みとでもいいから、歩きはじめちゃうといいかもね、という話である。そして、これはぜんぶ過去の自分どころか現在の自分に言い聞かせる言葉でもある。その理を、頭ではわかってるつもりでも、身体ではわかってないようなので、こうやって文字にしながら身体に刷り込んでいる。

「わからないけどはじめてしまう」ことの面白さは、戸惑いとか試行錯誤とか、そういった泥臭い人間臭い部分にある。そんなことをふいに考えたのが、オダギリジョーさんの記事だった。

もちろんいろいろな要素がありますが、芝居をまだ理解できずにいて、これが芝居だと思っていることが間違っている可能性もありますね。ただ経験の浅い、若い人たちのほうが全般的に芝居は面白いはずです。歳を取るにつれて変な技術が付くし、見せ方もわかってしまうので、芝居はどんどん狭くなる。わからない人のほうがよっぽど面白い芝居をします。人間性についても、がむしゃらに演じているほうが前に出ることが多いですね。

これは、過去noteで触れた明石家さんまさんの「ツッコミどころかあるか」の考えにも通じる気がする。

今の芸人はスゴイ優秀。若手でもスゴイやつ、上手いやつはいっぱいいる。でも上手すぎると思う。荒いほうが面白い。

「荒削りでもいいから、まずは表現するべく舞台に立ち続けよう」というのは、今の気持ちで言い換えると、「わからなくてもいいから、まずははじめてみよう」になる。「わかってしまうと面白くなくなるかもしれないから、わからないから楽しめばいいんじゃない?」とも言える。

はじめたいけど、わからないこと、たくさんある。わからないことは、わからないままはじめてみて、少しずつわかっていきたい。わからないなりに、わかろうと考え、動きあるいは演じ、汗をかくなか、その瞬間しか生まれない面白いをつくれたらいいよなぁ。

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