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いつから心にもない「いいね」を押すようになったのか? 自問自答ではなく、身近な人に投げかけてみたい、ちょっとした疑問。 InstagramでもFacebookでもTwitterでもなんでもいい。SNSのタイムラインを眺めてた、自然と湧き起こった「いいね」の気持ちに釣られて指も動いて押された「いいね」と、人間関係だとか商業性が絡んだ「いいね」は色が違う。 特に後者の商業性でいえば、「自分のアカウントをのぞいてね」というPR目的の足跡としていいねを付けるなんて手法が
生きづらさ、という言葉を耳にするようになったのは、10年ほど前の24~25歳のときだったと思う。とある福祉関連のメディアのお手伝いをしていたこと、重なるように家族友人知人の中にもいわゆる"病み"を抱える人も増えた時期だった。 最近のことを考えれば、昔よりも「発達障害」だと「うつ病」だとかも社会的には言い出しやすくなった気もする。根性論・精神論だけで片付けられてていたことが、新たなカテゴライズされ、安堵した人も多かったんじゃないだろうか。性質など先天的に持って生まれたもの
生きとし生けるすべてのものが難を抱えていて、生きてのるかよくわからないものも同じなようで。 電話応対などでよく使われる「もしもし」という言葉は、妖怪が関係している。という説がある。 なんでも妖怪(おばけや幽霊なんかもここでは含んじゃおう)は、同じ言葉を繰り返せないとか。だから、人間か妖怪を区別するときの合図として、二回繰り返すようになったそう。 山や里などの人気(ひとけ)が少ない怪しい道を歩いてて、だれかに出くわした。そのとき、相手が「もしもし」と
悪意がないものが、じつは一番悪意がある。 先日なんとなく雑談をしたときに、自分の口からこぼれた言葉だったのだけど、振り返ってみても「そう、そうなのよ」と数日前の自分にちゃんと同意できそうだ。 「うーん、悪意はないから、しょうがないんだけどねぇ」 知らなかったがために起きしてしまったトラブル。結構ある。もう世界中で1分1秒ごとに同時多発してるんじゃないか!ってくらいの問題だ。 知らなかったから「勘違いしてすれ違いが起こる」「勝手に行動して怒りを買う」「自由にや
日記をつけ忘れてた言い訳。の続きの日記。 ひさびさの完徹後に、そのまま新宿の会場へと向かう。そっからはあっちゅー間に事を終えた。もう36歳だし、寝てないことで短期記憶障害おこして、しゃべること急にぜんぶ飛んじゃったりしないかな? とかいろんな不安を抱えながら、本番を迎えることに。 プレゼンなんか2分ちょっとの一瞬だったし、終わっちゃえば、他の人のそれを観てればいいだけだから、楽なもんである。すべてを終え、14時くらいには会場を発つ。17時から打ち上げがあったので、時
スマホやパソコンの画面が、吸盤のように目からくっついて離れない。気を抜いたら、そういう状況はいくらでもあって、だからこそ人間の惰性を支える環境づくり(整備)が必要になる。 デジタルは毒にも薬にもなるツールだから、その付き合い方を間違いたくないわけで。その付き合いを円滑にするために、SNS(コミュニケーション)環境を変えたのだ。 この4月には、数年の思いを経て、どうにかFacebookから離れた。その後の話でいえば、まだアカウント削除まではしておらず、付随サービスのM
髪を切りたいと思っても、髪を切ってもらう場所がない。正しくは、お店なんてのはいくらでもあるけど、この店、もっといえば、この人ならおれの髪を預けても安心だ、と思えるところがない。 その美容師が切るのがうまい?イエスorノー?という話ももちろんあるけど、それ以上に会話の心地よさが自分にとっては重要だったりする。間の取り方、そして、話しかけすぎず放っておいてくれる配慮、こちらの言葉に対するリアクション、その小さな蓄積が心地よさをつくる。 相性でしかない、といってしまえば、そうな
飲み会は、なるべく少し離れた席から参加したい。 希望をいえば、裁判の傍聴席くらいの距離感が好ましい。自分がしゃべるのは必要最低限のやりとりにとどめて、基本はその場を眺めて、ただただ観察したい。そのときのメンバーの組み合わせや関係性によって、どんな会話が生まれ、どんな立ち振る舞いが見えるのか。人間に興味はある。 その眺める飲み会の条件として、まず自分は幹事であってはいけない。「参加者C」の雑魚、人数合わせくらいの立場だと、とりわけ話すことに必死にならなくてもいい。相手の反応
傾向と対策を。 受験シーズン真っ只中のこの頃合いにはどことなく聞こえくる声、イヤでも見せつけらる文字。AI様様は、過去のデータ分析からのよい一手を出してくれるツール/パートナーとしては優秀なのかもしれない。けど、なんつーか、どんなに傾向をわかってても対策があまり打てないのが、自分という人間だったりする。そういう点では、人間はAIを凌駕する。 ものごとをまじめに、悪くいえば、なんでも小難しく考えてしまう傾向、つまり、まじめな性格ってのは、自覚していてもなかなかすぐに対策が見
いるのにいないことになっている。おそろしや。 その予兆はちょっと前からあった。集落の神社掃除に行ったときのこと。いつもと変わらぬメンバーだが、見知ってるおばあちゃんがなぜかよそよそしい。目が合うのに目を逸らされ、おはようございますと挨拶してもそっけない。集落に4年半以上いるのにまるで関係がリセットされたような感覚に陥った。 先日さらにこんなことが。運営してる拠点(公民館)にいつものように行って、子どもからご老人までが集まるこの場所で馴染みの人と話をしていた。すると、急に「
なんのために、ことばを学ぶのか。 去年の春から「大山カレッジ」という町民大学で英語(50分×2コマ)を担当させてもらっている。平均年齢65歳前後の生徒さんが20人ほど、週1回通って、さまざま授業を受け、学び直しをする場となっている。 若者たちの学びと違って、「忘れることを大前提に学びをつくる」という意識をより持たされる諸先輩方に向けた授業づくりは、毎度ながらぼく自身の学びになっている。 オリエンテーションのときに直接聞いたが、前任の先生の影響もあってか、英語に対して苦手
「Instagramをやってない人は、存在してないようなもんだ」 そう考える若者はわりといるのかもしれない。細かいことをいえば、「やってない」とは「Instagramアカウントを持ってない」のことを指すし、人によっては「アカウント持っていても更新していない」と捉えることもあるだろう。 探求学習の一環で、中高生とのやりとりが増えるなか、「LINEですらあまり見ていない」学生がいることを知り、さらには「InstagramのDMしか見てない」という子すらいる。コミュニケーション
最近、また、隙あらば”自分マーケティング”をやってます。「おおみじゃ、という人間の経験・知識がどのようなアウトプットで役に立つのか」というリサーチを、雑談混じりに相手にちょこっと聞くというだけのことなんですけどね。 というのも、メルマガを再開しようかと思ってまして。基本的には、自分の”記録”としてつらつら書いていくスタイルになるかと思うんですけども、少し伝えられる相手がちょっと想像できそうなときには”発信”の意識で書くことも時々あってもいいのかなぁと。 「自分のことは自分
大きな家の真ん中に小さな”家”ができた。 もう4年以上、10部屋以上ある古民家に1人と5匹で暮らしてるわけだけど、今年の夏から新たな試みがはじまっていた。1階の中心にある8畳部屋に”テント”をぼんと置いた。そこは読書(集中)スペースということにして、家の亜空間として存在させた。 夏と秋が過ぎ、そして冬となり、気温が下がり、雪が降り始めるこの季節、このテントが断熱的観点から一気に価値が高騰し続けている。今ではテント内にこたつとヒーターを設置し、熱を逃さない設計で暖をとりなが