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4月21日【続】豊洲の焼き肉屋でお金について考える

  ※前回に引き続いての焼き肉屋での一幕です。

 焼肉の相場というものを、そもそもよく分かっていない。
 それなのに(いや、そのせいか?)、事前にネットでリーズナブルな店だと書かれたレビューを読んで安心し、値段もろくに確認しないまま今日を迎えたせいであろう。


 
 席に着きメニューを見るやいなや、「あれ・・思ったより高いかも・・」予想していたよりも上の価格設定に内心ざわざわしだす。
 そんな私の胸の内など知る由もなく「お腹すいた~。とりあえずこれとこれとこれは頼むとして~・・あとは~・・・」とサッサと注文を決めていく焼肉大好きマンの夫。
 「え?そんなに頼むの?」思わず口をついて出た言葉に非難の色がにじんでいることに気付き、後味の悪さを味わう。

 私は基本的にケチである。この間は210円の交通費を浮かせるために表参道〜六本木を20分歩いた。色あせようが穴が空こうが、現役で使い続けている部屋着だって何着もある。
 だけれど、言い訳がましいようだけれど、食事に関しては違う。
 昔から父に「食べ物だけはケチるな」と言われて育ってきたことも影響しているのかもしれないが、食事の席では気前よくありたいと常々思っている。外食に行ってまで「それ高いからこっちにしない?」なんて野暮なことは絶対に言いたくないし、言ったことも無い。
 
 だから余計に、自分の言葉にショックを受けた。
 こういう時につくづく思う。真の意味で豊かでありたいなと。
 
 お金があれば豊かだなんて、そんなことは当たり前じゃあないか。
 問題は、いくらあれば「お金がある」と言えるのかだ。たとえ5000万円あったとしても、都会の一等地に家を買えば一瞬で無くなるのだ。むしろ足りないくらいだ。

 「あといくら足りないのだろう?」「残りのローンはあとどのくらいだろう?」

 そんな風に無い方ばかりにカメラを向けてフォーカスを絞るから、欠乏感から逃れられない。家が買えても心は一生貧乏のままだ。
 だから大切なのは、今、あるものの方にカメラを向けてフォーカスを絞ることなのだと思う。

 振り返ると、件の焼き肉屋で私が集中すべきだったのは、支払い額の方ではなくて、お金を払ったことで得られるお肉や飲み物、受けられるサービスの方だった。
 お肉を食べて幸せを感じることこそ、あの時の私が真に欲していたことだったのだから。それなのにタン塩やカルビをガン無視して金勘定ばかりしていては、せっかくのお肉にタレじゃなく砂を擦り込んで食べているようなものではないか。
 もっとお金があれば豊かになれるという考え方ではなくて、何も変わらない今の懐事情のまま、憂いなく幸せにお肉が食べられたのなら、それは5000万円を持っていることよりもある意味価値があることなのだと思う。

 ところで【払う】という言葉について面白いことを知った。
 【払う】と【祓う】は同語源なのだそうだ。

【払う】
本体にとって邪魔・不要・無益なものなどを、手や道具を用いて取り除く。除去する。
【祓う】
神に祈ってけがれや災いを取り除く。清める。

goo辞書 / 漢字ペディア

 つまり、お金を払う行為とは「自身に不要なものを取り除く清めの行為」だとも言えるのではないだろうか。

 お金を払って苦しくなったり欠乏感を感じているとしたら、それはお金を本来の意味で使えていないのかもしれない。
 だって、神社でお祓いしてもらっているそばから苦しみ出すだなんて、本末転倒だもの。すっきりと気分が良くなることがお金の本来の使い方でありその効果なのだと思う。

 そしてこれは突拍子もない仮説なのだが、実はお金を払うという行為は、日常で知らぬ間についてしまった穢れや淀み、悪意や嫉妬、そういう目には見えないものをきれいさっぱり払ってくれる神社のお札のような効果があるのかもしれない。(そういえば紙幣はお札ともいう。読み方は違えど同じ漢字。何やら関係がありそうな気がする。)

 そして、そのおかげで我々は日々を安全に生きていけているのかもしれない。
 もしそうなら、身代わりとなって邪を払ってくれているお金にも、お金を払わせてもらえる先があることにも、感謝が溢れてくるではないか。






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