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【短編小説】ハンバーグの余韻

 ハンバーグが食べたいし、広めの席で本も読みたいなと思ったので、今日の夜ごはんはファミレスに行こうと決めた。混み始めると一人客は広い席には通してもらえないだろうから、早めに行った方がいいだろう。そう考えて17時過ぎには家を出ることにした。
 家を出る段になって、少し歩くけれどハンバーグとかステーキ専門のファミレスっぽい店があったことを思い出す。スマホで調べると店も広々していていい感じだ。ハンバーグもおいしそうだし、この店に行ってみることにする。

 湿気はあるけれどそこまで暑さは感じない体感の中、15分ほど歩いて店にたどり着く。店の前の道を挟んだところに、オレンジのTシャツを着た大人たちがわらわらしている。すっごいオレンジ、とマスクの中でつぶやいて、私は店に入った。
 店は空いていて、私は思惑通り四人掛けの席に通される。今日は2つのスーパーに買い物に行ったのだけれど、どちらのスーパーでも、このレジが早いはずだと思って並んだ列の隣の列の方が圧倒的に早いという結果となったことに落ち込んでいたので、自分の望みが叶ったことがうれしい。
 ハンバーグ200グラムとライスとサラダのセット、それからビールを注文する。運ばれてきたビールとサラダを行き来しながら、本を読み進める。読んでいるのは会社に妊娠したと嘘をつく私と同い年の独身の女性の話で、なんて嘘をつくんだと思いつつも、そんな嘘をつく気持ちも分らなくはないんだよなあとも思ったりしながら、ページをめくる。
 突然、外から大きな声が響いてきた。ガラスの扉の外を見やると、さっきのオレンジの人たちの辺りからスピーカーを通して発せられていることが分かった。そして選挙の演説だと気づいた。明日の選挙に向けての最終演説だ。オレンジの人たちは支持者とか関係者なのだろう、たぶん。候補者自身の姿は見えない。
 演説に気づいてしまったら、急に本の内容が入ってこなくなる。かといって演説の内容も入ってこない。なんだか宙ぶらりんな状態。でもそれは悔しいので、本に集中するように努力する。
 鉄板に乗せられたハンバーグがじゅうじゅうという音と共にライスを従えて私の前に運ばれる。ハンバーグは柔らかくも、思いのほか肉々しくて、こういうタイプねと一人でうなずきながら食べ進める。赤ワインのグラスを追加で注文し、本を読みながらハンバーグを食べている間も、外の演説は続いている。意識を向けていないものの、「子どもが」とか、「子どもたちの未来が」などという言葉が聞こえてくる。私は耳を閉ざし、目の前のテーブルに広がる私の世界に没頭する。ハンバーグ、ライス、サラダに赤ワイン。それから読みたい本。小さいけれどいい世界だと思う。

 満腹の腹を抱え、ライスを少なめにしてもらえばよかったという少しの後悔とともに、レジに向かう。
 会計を済ませて店を出ると、ちょうど演説を終えたオレンジの人たちが撤収して駅の方に向かって商店街を歩き始めたところだった。何というタイミングだと思いながら、オレンジの人たちの後ろを付いていく形で私も歩く。
 オレンジの人たちはゆっくりと進んでいく。候補者の名前がスピーカーを通して連呼される。名前と同じくらいの頻度で「子ども第一、子ども第一、子ども第一」と連呼している。そういえばさっきの演説でもそんなことを言っていた。
 そんなに子ども子どもって言われてもピンと来ないなあ、と独身で子どもを産みたいと思ってもいない私はオレンジの人たちをぼんやりと見る。独身で子どもを産みたいと思っていない人でも、「子ども第一」がピンと来る人もいるのだろうか。オレンジの人たちにとって私は透明人間みたいなものなのかもしれない。
 そう思うと、途端にさっき私を満たした世界がとてもちんけでちっぽけなものに感じられる。四人掛けのテーブルに繰り広げられた私の世界。あんなもので満足できるなんて、どうかしているのだろうか。一人のくせに。

 歩きながら、Tシャツからハンバーグ臭が漂ってくること気づく。じゅうじゅうの鉄板に前にさらされていたのだから仕方ないと思いながら鼻を近づけてかいでいると、急に右足のスリッポンが脱げる。通勤中の混みあった駅の構内で後ろの人に靴を踏まれて脱げる、あの感じ。なぜここで? と後ろを振り向くと、自転車に乗った女の子と目が合った。小学校低学年くらいだろうか。私はこの子が自転車で私の靴を踏んだのだと理解する。痛みはまったくないので、うまく靴だけ踏んだのだろう。
 女の子は私の目をまっすぐ見て、「ごめんなさい」と言う。さらに女の子の後ろにいた母親が「ごめんなさい。大丈夫ですか?」と焦った様子で訊く。私は「大丈夫です」と答える。本当は、子を持つと「子ども第一」という言葉は強く魅力的に響くものなのかと訊きたいところだが、そんなことはせず、軽く会釈をして歩き始める。女の子が母親から自転車を降りて引いて歩くように言われているのが後ろから聞こえた。
 小説の中の彼女はどうだろう。妊娠したと嘘をつき、詰め物で腹を膨らませながら何週間も過ごしていたら、「子ども第一」という言葉に反応するようになるのだろうか。そんなことを考えながら商店街を抜ける。オレンジの人たちは左へ曲がっていく。私は右へ曲って家に向かう。
 
 家に帰ったらハイボールを飲もう。買ってあるメンマをつまみに、小説の続きを読むのだ。私だけの小さい世界で。



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