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【短編小説】セミ触れます

 月曜日の朝。会社の敷地内を歩いていると、建屋の入り口近くにアブラゼミが落ちていた。

 落ちていたといっても裏返しではなく、きちんと表を向いている。生きていることは一目瞭然だった。でも人通りのあるところにいたら、いつ踏まれてもおかしくない。私はアブラゼミに近づいて、右手の人差し指で脚をつんつんと触る。途端にアブラゼミは飛び立った。鳴かなかったからきっとメスだろう。私がつかんで助ける必要はないくらい、アブラゼミが元気だったことにほっとする。

 そういえば、セミを触るのは2年ぶりだ。去年は一度も触らなかった。コロナで外出が減ったことが要因だと思う。とにもかくにも、私はまだセミを触れることがわかった。

 私がセミを触るのは、道に落ちている場合だけだ。ひっくり返っているセミを見つけると、生存確認をせずにはいられない。確認するには触るしかない。もし生きていたら、セミの元気度によって対応が変わってくる。元気であれば飛ばすか木にとめてやればいい。あまり力が残っていない場合、木の低い位置に何とかとめてやるか、枝の上に乗せるか、それが無理であればせめて土の上に置く。コンクリートの上で人間に踏まれて最期を迎えるのはあまりにも忍びないから。

 別にセミがすごく好きというわけではない。実際、年を重ねるにつれてセミを触るには気合が必要になったし、少しだけひいぃっという感じもある。それでも落ちているセミを触るのは、私なりの諸事情がある。

 今から30年前。小学一年生の夏休みに母の実家に行った。10日ほどの滞在の中で、私は祖母から虫捕りの仕方を教えてもらった。そしてセミを捕まえられたことがうれしくて、買ってもらった虫かごに入れて祖母の家に帰った。虫かごで勢いよく暴れていたセミは、翌朝には息も絶え絶えという様子で、狭いところで暴れ続けたせいで羽はぼろぼろになっていた。そのとき、セミは一週間しから生きられないのだということを母から聞いた。たった一週間しかない大事な時間を、私は虫かごに閉じ込めて奪ってしまったのだと気づき、ひどく後悔した。セミの一生を大事にしようと決めた。

 それからも私は夏になるとセミを捕まえる子ども時代を過ごすことになるのだが、捕まえたセミはすぐに家に持ち帰り、マンションのベランダで育てていたライラックの木にとめて観察するようになった。そうしてとめたセミたちは、すぐに飛んで行ってしまうこともあったし、一晩とまりつづけることもあった。私の夏はセミと強く結び付いていた。

 小学6年生で念願の犬を飼い始めてから、セミを捕りに行く頻度は徐々に減っていった。犬の散歩とセミ捕りの両立はなかなか難しかったのだ。そしてついにセミを捕り行かなくなり、古ぼけた虫捕り網を捨ててもいいかという母の問いかけに、迷いなく「うん」と答えた。私は中学生になっていた。

 それでも私は落ちているセミを見つければ拾って家に持って帰ることもあったし、近くの木にとめてやったり土の上に移動させたりし続けた。小学一年生の夏の私はいつまで経っても鮮明なまま私の中に留まり続けた。

 そんなふうに過ごしてきたから、セミを触れるのは当たり前のことだと思っていた。でも実はセミを触れない人が割と多いことを知った。東京という土地のせいもあるのだろう。特に女性は「絶対無理」という態度の人が大半で、私は自分がセミを触れることをチャームポイントのひとつではないかとひそかに思うようになった。他の女性たちとの差別化要素なのではないかと。それを保つには、セミを触れる私であり続ける必要がある。いつの間にか、小学一年生の私と、よこしまな気持ちを持つ大人の私が同居するようになった。

 そんな私のチャームポイントを発揮する機会が訪れたのは、28歳の時のことだ。

 当時私には付き合って間もない恋人がいた。そのときの私は仕事が嫌で嫌で仕方がなくて、そんなときにできた恋人だったので、結婚して扶養される身になることを心から望んでいた。だから私は恋人に対するあらゆる言動の端々に結婚をちらつかせていた。

 恋人と迎える初めての夏。デートを終え、二人で彼のマンションへ向かった。すると、部屋のドアの前にアブラゼミが落ちていた。セミを見るや否や、恋人は「うおお。俺、セミまじで無理」と叫んだ。その言葉を聞き、私の出番だと思った。私はセミを触って生きていることを確認すると、「生きてるから近くの木にとめてくるね」と言ってセミをつかんで駆け出した。エントランスを出るとすぐ脇に木があったので、セミをそこにとめて、部屋へ戻った。恋人はドアの前に突っ立ったままだった。私は嬉々としてこんなことを言った。

「私ね、セミ触れるの。子どものころは夏になると毎日セミを捕りに行ってたの。だからあなたがセミを苦手だとしても、私が今みたいに対処できるし、いずれ結婚して子どもができて、その子がセミに興味を持つことがあったら、私は一緒に楽しめる自信がある。だから大丈夫だよ。私に任せて」

 そんな私に恋人は恐ろしいものでも見るかのような目を向けたけれど、それはセミに対する怯えのせいだと思っていた。でも今思えば、セミにまでかこつけて結婚を迫る私に対するものだったことがわかる。恋人にとって私はセミよりもまじで無理な存在になり、ほどなくして振られた。

 つまり結局のところ、セミを触れるというチャームポイントを有効に使えたことはない。そしてたぶん、これからもないと思う。私は今独身で、あんなに嫌だった仕事を続けていて、この夏に課長になった。

 金曜日の夜。21時過ぎまで働いて建屋を出ると、ばささっという音がした。聞き覚えのある夏の音。

 すぐにセミを見つけた。ミンミンゼミだ。セミはひっくり返りながら、脚を動かし、透明な羽をばたつかせていた。鳴かないからメスだろう。
 私はセミの脚の前に左手の人差し指を差し出した。空を切っていたセミの脚は私の指を捉え、ひしとつかまった。指につかまる力は思いのほか強く、ちょっと痛いよと文句を言いながら、右手で指から引き離してセミをつかんで持つスタイルに変える。子どものころ、ミンミンゼミの頭部のエメラルドグリーンがきれいで好きだったことを思い出しながら、つかんだセミをしばし眺める。羽はまだきれいだった。そして、私はまだセミをしっかりつかめることを知る。久しぶりだったから一瞬ぞわっとしたけれども、私のひそかなチャームポイントは健在だった。

 近くの植え込みに木を見つけて、私はセミをとめる。それからじゃあねとつぶやく。

 仕事の後にもう一仕事終えた私は、家で冷やしてあるビールを楽しみに帰路に就く。

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