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【推し、燃ゆ】 這いつくばりながら生きていく

はじめに

 第164回芥川賞に「推し、燃ゆ(宇佐見りん 著)」が選ばれたとのことで、数冊ほど、今まで読んだことのある芥川賞受賞作品を一気に読み返してみました。コンビニ人間、蹴りたい背中、限りなく透明に近いブルー、、、など。懐かしいです。いつか、感想が書ければと思います。

 最近の文学作品を解釈することは、とても難しいと思います。なぜなら、私が生きている時代は「今」であって、時代の波に飲み込まれている当人であるからです。したがって、そのような作品を客観的に解釈することが難しく、どうしても自分の経験や感情が入り込んでしまいます。

 13歳からのアート思考(末永幸歩 著)のアート鑑賞の方法の中で、作品の背景の情報を理解することのみが「正しい見方」ではないとあります。作品との「やりとり」には2種類あり、作者と作品のやりとりと、鑑賞者と作品のやりとりです。

 したがって、そのような時代性を感じつつ、その作品に対して、読み手側の経験や環境でアップデートされていく一面や、逆に普遍的な一面を見つけることもまた、あるべき楽しみ方の1つなのかな、とも思います。

 以下、本作品の内容と感想を記します。何年後か、もう1度今の自分とは違う環境で読んだ時に、作品と自分にどのようなやりとりがあり、どのような新たな発見や感想を持つか、今から楽しみでなりません。


「推し、燃ゆ」について

推し、燃ゆ
宇佐見りん 著
第164回芥川賞受賞作品


ーーー 推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。 ーーー

 吾輩は猫である、人間失格など名作文学は最初の一文目が印象的である、とあるが、この作品も例に漏れずインパクトのある書き出しだ。

【内容】
 依存でもなく逃避でもなく、自らの背骨として祈るように「推し」を解釈し、推し続ける女子高生あかりが主人公。ある日、推しがファンを殴ったことで炎上してしまうが、それでもあらゆる肉が削ぎ落とされて背骨だけになっても推し続けた。そんな中、推しの芸能界引退が発表された。主人公は推しのいない人生は余生であると感じるが、それでもこれが自分の生きる姿勢だと受け止め、生きようと思った。

 ①推しと自分の関係性について 

 あかりと推しとの関係性は「一方通行」である。実社会は、他人とのコミュニケーションが必要である。友達、恋人、会社の同僚や上司など、それぞれの役割にあった相互的なコミュニケーションが求められる。
 しかし、自分がいくら推し続けても、推しとの距離が変わることはない。あかりは、その「隔たり」分の優しさがあるのだという。

 一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。
                         「推し、燃ゆ」文中

 ②這いつくばりながら生きていく

 あかりが発達障害であろう記述は文中に散りばめられている。現在では、そのような障害についての認知度は広まっているが、それが理解され、受け入れられているかと言われるとそうではない。
 なぜ普通の生活ができないのだろう、生きているだけで壊れていく。主人公は、そのような自分の性質を抱え込んで生き抜こうと思ったところで、本作品は幕を閉じる。


 這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。
                         「推し、燃ゆ」文中

 ここの表現が本当に素晴らしい。自室の床に落ちたゴミを、這いつくばりながら不器用に1つ1つ拾っていく。主人公は、その先にも長い長い道のりがあることを感じている。
 力強くも感じるが、同時に危うくも感じる最後である。

 ③自律的に生きられる人はいるのか?

 これは、宇佐見りん氏のインタビューでの一言である。

 本作の主人公あかりは、自分の時間を自分でコントロールできないが、推しから支配されることで生きている、いわば他律的な時間の過ごし方している。それに対して、著者の宇佐見りん氏は以下のように答えている。

 自律的に生きてる人ってそんなにいっぱいいるのかな?っていうのが私の疑問です。自分のために生きられるほど、人ってなかなか強くないと思います。

 人間は社会的な生き物であり、人と繋がることで幸福を感じ、生きていくことができる。私も今までを振り返ると、会社、家族、恋人などとの関わり合いの中で、他律的に過ごしている時間の方が長いのではないか、と感じる。自律的な行動のみで生きていける人間は、そうそういない。

 したがって、推しを押すということは、それ自体が否定されることではなく、多様な人との繋がりの中の一種だと言える。


最後に

 最後に、著者は「書く」という行為の原動力として、「人がいる」感覚を挙げています。

「書く」だけでなく、書いたものが「読まれている」という相互的な交流によって救われており、「書く」ことの地盤になっています。

 私も、読んだ本を自分の中に落とし込むだけでなく、noteを通じて少なからず公開することで、見ず知らずの誰かと共有しあい、それがまた本を読む原動力になっているのかもしれません。



 下の写真は、蔵前の「en cafe」のケーキセット。広い空間で、電源もあり、Wifiもあるので、とても良いカフェでした。ケーキはイチジクのタルトで、とても丁寧で美味しかったです。


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