感性を育てるためのマイナス

私の長所のひとつであった「人から勧められた物をどれだけ時間が掛かっても全て摂取*する」が最近失われつつある。

(*読む、観る、聴くなど、コンテンツに触れる行為は動詞が定まらない為、ここでは「摂取する」と言っています)

ある程度色々なものを摂取してきて審美眼が養われたのか、偏食になったのかは分からないが、人から何かを勧められても、あまりそのコンテンツに積極的になれなくなった。

「これ、すごくおすすめなんだよね。」と言われ、マジで興味ないなーと思いながら「面白そう!すごく気になる!」と社交辞令を返したことがあるし、そのせいで誘いを断れないフラグを立ててしまったことがある。その時はどうしても嫌過ぎて、無宗教のくせに「宗教上の理由で劇場版の映画が観れない。」という最低な嘘をついたこともある。

学生時代、同年代が素晴らしい青春時代を過ごす時間をインターネットや活字などに充ててきた。社会的欠如と引き換えに感性を磨き、センスを手に入れたという自負があり、そこが私の強みであり弱みにもなって自分に返ってくる。要は、めちゃくちゃこじらせている。私は意地を張ってセンスという鎧を纏って自分を守っている。
新しい何かを知ってしまうと、知らなかった状態には二度と戻れないので、そこで自分が影響を受けることがとてつもなく嫌だ。
何かを摂取したあとの自分の意見って、本来の自分の言葉なのだろうか。
私という純度が低くなりそうで、自分の感性を守りたいばかりに新しいコンテンツに対して疑心暗鬼になったりつい保守に回ってしまう。

作家の村上春樹は「SNSはまずい文章なので全く見ない」と言っている。上質な文章を摂取することが大事だ、と
それに少し近いところがあって、摂取したものはそのまま自分の血肉になるので、自分の為になる上質なものばかりを摂取したい。時間って有限だし。

22歳になり、自分の人格、自分に足りないものが少しずつ見え始めた段階で、コンテンツを選り好むのは自然な事なのかなと思っている。

やはり感性を育てるのはプラスではなく実はマイナスの要素の方が重要視されると思う。
だってこんなにも情報社会ですし。たくさんのものが溢れ返して、移ろいの激しい中で大事なのは得ることではなく捨てること。

東京に来て、物や情報ってこんなにも溢れてて流動してるんだって思った。これ、全部に影響受けてたらマズイぞって。揉まれて、自分がどんどん薄くなっていく怖さを秘めてる。

なんでも吸収、暴飲暴食期間は捨てて、少しステップアップをしようと思います。

うう、頭の中の事を垂れ流しすぎて要点が全然まとまらない。
ヴァージニアウルフあたりの文学上の手法「意識の流れ」ですと言えば格好がつくかもしれない。
心の中って動的だよね。
ZOZOTOWNの元社長の前澤さんも「本を書いてくださいって依頼はたくさんくるし、挑戦した事もあるけど、書き留めたそばから考えがどんどん変わってしまって、結局執筆を終えた頃には全く違う気持ちになっているから本は書けない。」と言っていた。それと同じかもしれない。

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