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スタッフストーリー#4 / 人生は、思いもしなかったことの連続。回り道をしながら私がつかんだもの。

青梅慶友病院には、仕事をしながら専門職の資格を取得する職員が多くいる。
例えば、介護職からリハビリテーションの専門職にキャリアチェンジをしたケースも多い。
今回の『スタッフストーリー』は、今から3年前、40歳にして作業療法士へ
キャリアチェンジを果たした入職21年目の職員、重野岳さんのストーリー。

社会人になり切れなかった20代

この企画に出るのが私でもいいのでしょうか。
これまでに登場された皆さんとは違い、非模範的な職員だったので・・・

若手時代のエピソードを訊ねると、重野さんは当時の生活態度を“若気の至り”とおもしろがるでもなく、ただただ申し訳ないという表情でそう切り出した。
頭を掻いて何度も「自分勝手な人間でした」と口にしながら。

青梅慶友病院で働き始めて何年か経った頃、フットサルにハマって町田のとある本格的なチームに参加することになったんです。
仕事が終わると町田まで移動して、深夜まで練習。
終電もなくなってしまうからネットカフェで朝まで仮眠して、そのままそこから出勤して。
だから寝不足のまま、疲れたまま働く、という繰り返しで。
・・・本当に社会人としての自覚が欠けていたというか。

重野さんが青梅慶友病院に入職したのは、2002年。
職種は生活活性化員だった。
現在はリビングサポーターと名称を変えた慶友病院独自の介護職である。
生活活性化員の主な役割は「患者様を元気にすること」。
介護職とされてはいるものの、介護の業務は実際には約半分。
残りの半分はイベントを企画したり、病棟の環境を整えたり、患者様が元気になるよう知恵を絞って何でもする。
そんな生活活性化員が、当時は各病棟に1名配置されていた。

そのころ、病棟の師長さんやスタッフのみなさんが、そんな私の姿をどんな思いで見ていたのかと考えると・・・
みなさん口には出さず、見守ってくれていたんですが。

新人時代の重野さん

大学卒業後、生活活性化員(現名称リビングサポーター)として入職した重野さんは、その後リハビリ助手、レクリエーションスタッフなどと職種を変えながら入職から18年後、40歳のときに作業療法士の資格を取得した。
働きながらキャリアチェンジを果たすスタッフが多数いる慶友病院においても、重野さんのケースは「長い期間」をかけての資格取得という点において特徴的である。
しかしその道のりは、いばらの道とも言える葛藤と苦難の連続であった。
そんな重野さんのキャリアを辿るにあたって、まずは入職までの話を聞いた。

校長先生からの呼び出しが生活を一変させた

私は体育大学を卒業しているのですが、実は小学校の途中まではスポーツにまったく関心がなくて。
部屋でマンガを描いたり、電車を眺めたりするのが好きな子供で、身体を動かすことは好きではありませんでした。


幼いころの重野さん

そんなおとなしい少年がどのようにスポーツと出合い、目覚めていったのか。

きっかけは「校長室への呼び出し」だったと言う。

何のスポーツもせず、エネルギーが有り余っていたのかもしれません。
マンガクラブはそもそも活動が少ない。
持て余したエネルギーと時間のせいで、小学校高学年になるとちょくちょく問題を起こしていました。
ある時、ふざけていて教室の窓ガラスを割ってしまい、校長室へ呼び出される事態に。
怒られることを覚悟していたところ、校長先生が予想外の言葉を口にしました。
『許してあげるから、きみは陸上クラブへ入りなさい』と。
自分ではそれほど自覚がなかったのですが、ある先生が『重野は走らせたらおもしろい』と見てくれていたらしく、校長先生を巻き込んだ一芝居が仕組まれていたようでした。

校長先生からの入部命令により、小学5年で陸上クラブへ入ることになった重野さん。
潜在能力に目をつけていた先生の予言どおり、入部早々に才能が開花する。
入部間もなく出場した地元柏市の陸上競技大会100m走でいきなり4位入賞を果たしてしまった。

自分でも驚きました。それにすごく楽しい。
練習すると、その分ちゃんとタイムが良くなっていく。
そこから生活が陸上競技一色に一変しました。

陸上競技にささげた10代

小学6年時の運動会には中学校の先生が視察にやって来て「陸上部で待っているから」と告げて帰っていった。
重野少年は地域でちょっと名の知れた存在になっていた。
小学校で体育の先生とどちらが速いか、というイベントが企画され、なんとその先生にも勝ってしまったという。

そして進んだ中学。
前途洋々だったはずの中学生活には思わぬ壁が待ち構えていた。

入学早々、同じ中学校の同級生に負けました。
しかも陸上部ではなく野球部員に。
彼は野球部所属なのに、あまりに足が速いからと、陸上大会の時だけ出場していたんです。

結局、彼は千葉県の県大会でも優勝しました。
陸上部としてはとても悔しい状況です。
でも、心が折れるとか、そういう感じにはならず。

「よし、やってやる」と燃えましたね。

陸上部ですらない同級生に負けても、腐ることなくコツコツとトレーニングを重ね、中学2年の時には200m走で千葉県1位にまでなることができた。

その後、高校と大学でも「学生時代は陸上しかしていなかった」と言い切るほど、競技に専念した。

高校ではインターハイに出場(重野さんは黄色シャツの後方走者)

大学4年時にはその集大成として全日本インカレへの出場権を獲得。
しかし、なんとその日程が教育実習と重なってしまう。

将来は体育教師になるつもりで、大学は仙台大学体育学部に通っていました。
全日本インカレは国立競技場が会場。
競技者として一度は走ってみたい夢の舞台です。

でも教育実習を選びました。
教員になるためにはそうするしかなかったですから。


そして、この教育実習がターニングポイントとなり、重野さんの人生は大きく舵を切っていくこととなる。

突然の進路変更

悩んだ末に、全日本インカレではなく教育実習を選んだ重野さん。
しかし、その教育実習を終えるとなんと教員を目指すことをやめてしまう。

実習校では先生同士の人間関係があまりに悪くて。
今であれば教員の全てがそうでないことはもちろん分かります。
むしろ、たまたま特殊なケースに当たったのだろうなと。
でも当時の私は、これほど雰囲気の悪い世界で働く気にはなれない、と強い拒否感を抱いてしまって。

教員という職業を将来の選択肢から外しました。

教員を目指すことはやめてしまった。
でもこれまで全く就職活動はしてこなかった。
焦った重野さんは、急いで大学の就職課へ駆け込んだ。

相談に行ったまさにその日でした。
就職課の方から「ちょうど今日の午後に、説明会が一件あるよ」と教えてもらい、大急ぎでアパートに帰ってスーツに着替えると再び大学へ戻りました。

そのときの説明会が青梅慶友病院でした。

参加した学生は10人くらいいたかもしれません。
他はみんな健康福祉学科の学生で、体育学科は私ひとり。
だから、みんながする専門的な質問に圧倒されました。

これはダメだ、こういう病院はきちんと介護を勉強してきた人が働くところなんだ」と、うなだれて帰ったことを覚えています。

良さそうな職場だったけれど、自分には縁がなかったな。
そんなことを考えながら肩を落として帰った重野さんに思わぬ連絡が入る。
「一度、見学だけでも来ませんか」という病院からの誘いだった。

すぐに上京しました。
院内を案内してもらい、話を聞いて、そのまま仙台にとんぼ返りすると大学へ報告しました。青梅慶友病院で働きます、と。

たった一日の見学だけで就職を決めてしまった。
いったい何がそうさせたのだろうか。

実は教職課程の中で、養護学校やデイサービスなどでの実習を経験していました。
ですから多少は福祉施設の雰囲気やそこで働くイメージは持っていて、慶友病院を見学した時に、「ここは普通ではない」ということはすぐに分かりました。
きれいだし、イヤなにおいもしないし、職員のみなさんが礼儀正しくて、特に案内をしてくれた担当職員の方が本当に丁寧に説明をしてくれて、それが何よりの決め手でした。

入職、そして迷走の日々

ここなら間違いない ― そう考えた重野さんは2002年、大学卒業と同時に青梅慶友病院へ入職した。

入職時の職種は生活活性化員(現名称リビングサポーター)。
いざ働き始めると、この仕事は自分に合っているという印象を持った。
一日デスクに座って電話対応をしたり、パソコン作業をするよりも、身体を動かして、患者様や同僚とコミュニケーションを取りながら働くというスタイルは自分に向いていると感じた。
ところが入職して数年が経ち、ある程度仕事に慣れてくると、次第に停滞感を感じるようにもなっていった。

単調な仕事。
そんな風に考えるようになっていきました。
ルーティーンで決められた仕事があり、それ以外の、個人裁量であるはずのイベント企画やレクリエーションもいくつかのパターンの中からローテーションを繰り返すだけになり、新しいことにチャレンジするとか、さらに工夫してみるとか、そういうフレッシュな気持ちは徐々に失われていきました。
勤務終了後のフットサルが生活の中心になり、社会人として迷走が始まりました。

フットサルではゴールを守る役

本当にこのままでいいのだろうか-そう不安を感じていた重野さんだったが、同じようなタイミングで人事異動がありリハビリ助手という新たな仕事に就くことになる。新たな仕事、これまでと異なる役割は新鮮で刺激を受けた。

しばらくすると今度はレクリエーションスタッフへ職種変更することになる。
院内のレクリエーション活動に特化した職種である。
レクリエーションなら生活活性化員の頃にも担当していたはずだったが専門スタッフとして従事したことで、あることに気づいた。

レクリエーションの仕事を「おもしろい!」とようやく気づいたんです。
生活活性化員の頃はひとりで任されていたこともあり、工夫をするという視点を放棄していました。
でもレクリエーションスタッフの先輩と一緒に働く中で毎回、もっと楽しませることはできないかと、必ず工夫をする姿を間近で見て感化されました。
ちょっとした一工夫で、実際に患者様もスタッフもお互いに楽しくなるんです。

こうして働く中で重野さんの身の回りにも変化が生じていく。
結婚し、やがて二人の娘にも恵まれた。
年齢は30代半ばに差し掛かっていた。
専門職の資格取得を考え始めたのはそんなころだった。

作業療法士になりたい、と考えるようになりました。
資格を取れば安定して長く働けるイメージがありましたし、生活活性化員からリハビリの専門職にキャリアチェンジした職員は過去に大勢いて、それほど大変なことだとは考えていませんでした。
実はそこから、苦悩の日々が始まるのですが。

甘くはなかった学業との両立

昼間は病院で働き、夜は専門学校へ通った。
4年制の学校だが卒業には5年を要した。
不器用で、もともと人よりも時間がかかる。
さらに第二子の育児も始まり、どんどん余裕がなくなっていった。
なんとか専門学校を卒業し、臨んだ国家試験に今度は不合格。
1年留年の末に、さらに1年の足踏みをすることになってしまった。

みんな応援してくれるんです。
職場の同僚、そしてもちろん家族も。
個人的な事情とはいえ、勉強中であることに理解を示してあらゆる場面でサポートをしてくれる。
それなのに留年や浪人を重ねるという状況には不甲斐なさで、かなり追い込まれてしまいました。
家族や職場の応援は本当にありがたかったです。
一方で、それに応えることができない状況にどんどんプレッシャーだけが膨らんでしまいました。

そんな苦況を乗り越える、その支えになったものはいったい何だったのだろうか。
そう訊ねると、家族の存在を真っ先に挙げた後で「そういえば・・」と一つの話を聞かせてくれた。

国家試験の勉強は確かにプレッシャーを感じてはいましたが、一方で勉強することのおもしろさに目覚めてもいました。
何度か職種を変えたり、入職後にたくさん回り道をしてきましたが、改めて勉強することで、それまでの経験が知識と結びついていく、そんなおもしろさと充実感がありました。

そうして苦悩の日々を乗り越えた重野さんは2019年、ついに作業療法士の資格を取得。
かつて「プレッシャー」に感じていた家族、病院からの応援。
それにようやく応えることができた安堵感は今も忘れないと言う。

無事合格できて、スタッフのみなさんから
「良かったね、がんばったね」と声をかけていただくたびに、この病院で、このキャリアを積むことができて本当に良かったと実感します。

回り道をしている時にも、この病院には待っていてくれる人がいるんだと。

重野さんは自分のことを、不器用で、のんびりしていて、人よりも時間がかかる人間だ、という。
確かにこれまでの歩みを見ても、順風満帆だったとはいえないかもしれない。
思いどおりにいかないこともたくさんあった。

そのたびに重野さんを支えてきたのは、何よりの持ち味である粘り強さだった。
かつて自慢の短距離走で野球部員に負けたとき「俺なんかダメだ」とは考えなかった。
「よし、やってやる」と地味なトレーニングを淡々と積み上げていったあの人間性は、20年経って人生のステージを変えても、きっと変わっていない。


そんな重野さんへ、最後に訊ねた。

「今のリビングサポーター、そして未来のリビングサポーターにメッセージはありますか」と。

若い人たちを見ていると、私にはないものをたくさん持っていると、いつも感心しています。
新しい技術をうまく使いこなすし、年上のスタッフにも萎縮せず堂々と自分の意見を言える。
新人時代の自分とは比較できないくらい頼もしく、しっかりした人が多い。
「イマドキの若者は・・」なんて思うことはめったにありません。
ただ、たくさん道に迷って、仲間を巻き込んで苦悩してきた自分に言えることがあるとすれば、これに尽きます。

あきらめないこと。粘り強さはそのうち才能を超えていくから。



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