えいが感想ヘッダ

『えいがのおそ松さん』感想  ~分水嶺を越えた先にある自分だけの物語~

2019年3/15にアニメ『おそ松さん』の劇場版である『えいがのおそ松さん』が公開されました。普段は映画館で映画を見ることなどあまりない私もネタバレが怖かったので初日真っ先に見に行きました。結論としてはこの映画は事前情報一切なしで見て大正解だったと思います。

本当なら公開後すぐに感想を書くつもりでした。でもいざ書こうとするとこの作品の魅力を紹介することがとても難しいのです。結局公開中5回も見に行ったくらい大好きな映画であるのにです。

この映画の印象を左右するのは、後半から登場するオリジナルゲストキャラです。このキャラの存在意義や作中での役割というのが見る人によって異なる。その定義づけの違いが見る人の感想を変えてしまう最大の原因でしょう。

あと、笑いのツボは人それぞれとは思いますが抱腹絶倒って感じのギャグアニメ劇場版を期待すると笑い要素は物足りないような気がします(個人の感想です。普通に大笑いした部分もいっぱいあったけど期待値超えなかったという意味です)。

一期でみられたようなどこか人を食ったようなハイレベルな笑いを期待すると肩透かしだなぁというのが私の率直な感想。もちろん冒頭の同窓会中のわたわたぶり(赤塚ホテルとか「ニート村ァ!」など)とか、OPの懐かしくも新しいような雰囲気とか、「テンテーッ!」とか、映画冒頭の前説劇場とか好きなところもいっぱいありましたよ?

でも、なんというか万人向けっぽくて私が松に普段求めている尖ったものではなかった。もっともこの映画そもそも全体を包んでるテーマがギャグではないのでそこを期待していくのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
(追記:「万人向け」とか書きましたがいつもより少なめとはいえ下ネタもあったのを忘れてた。特にダヨーンの顔が××【自主規制】の形になるギャグとかそのあとのスプラッタとかは全然万人向けじゃない。私はあんまり松の下ネタ好きじゃないのでギャグとして換算するのを忘れてた。申し訳ない。ありますギャグも。でもアニメ本編より少なめなのは本当)

そういうあれこれがしこりとなってしまい公開中はあえて感想を書きませんでした。一ファンとしては次につなげるという意味で出来るだけ多くの人に見て盛り上がってほしいので冷や水になるような部分もある感想を書きたくなかったのです。

以下の文章では映画の内容や登場人物について全力でネタバレした上でこの作品への感想や個人的解釈を記録しておこうと思います。映画の内容や制作者コメントについて結構詳細に語りますのでご注意ください。各種雑誌、パンフレットからの引用もあります。人名は一部敬称略。

◆簡単なあらすじと初見の感想

迷い込んだ不思議な世界で6つ子たちが出会ったのは18歳の自分たち。
(『えいがのおそ松さん』公式サイト「ストーリー」より引用)

久方ぶりの高校の同窓会。ちゃんとした同級生に囲まれてちゃんとしていない自分たちを再認識してしまった6つ子たち。ふてくされ酔いつぶれた六人はそのまま不思議な世界に迷い込んでしまいます。これが今回の舞台となる”思い出の世界”です。

6つ子たちは「君たちの中に大きな後悔を残しているものがいる」と告げられます。この世界は誰かの後悔により生まれた作り物。一見すると過去世界ようでありながら”思い出の世界”は実際の過去ではなく、あやふやな記憶で再現された疑似空間なのです(その為現実とは違う綻びやハチャメチャな背景が随所にあります)。

遠い記憶からこの世界が高校の卒業式前日であることを理解した6つ子たちは自分たちのうちの誰かが卒業に際して後悔を残しているに違いないと判断し、この世界を抜け出すために18歳の自分たちと会いに行くことに……これが基本ストーリーでありこの映画のほぼ全部です。非常にシンプル。

前半~中盤はどうやって元の世界に戻るかという目的を中心に据えつつ寄り道のギャグを挟みながらいつも通りの雰囲気でドタバタとした進行。しかし、とあるキャラの存在がほのめかされた途端物語はガラリと変貌します。それが劇場版オリジナルキャラ”高橋のぞみ”です。

結論を言ってしまいますが、この世界を作った後悔は”高橋のぞみ”が卒業式の前日、6つ子たちに出した手紙に端を発するものでした。6つ子たちの同窓生だったという彼女。映画の初っ端から登場する意味深な病室シーンや同窓会でのトト子の発言などから伏線を敷かれてはいるのですがその登場は初見時あまりにも唐突に思えました。映画の重要キャラクターであるにもかかわらずです。

病弱な彼女から見たらいつも賑やかで楽しそうに思えた6つ子たち。話しかける勇気はなくともずっと陰から眺めていた”高橋のぞみ”にとって6つ子は特別な存在でした。卒業間際にアイデンティティの確立に悩み仲違いしていた彼らをずっと気に病んでいたという”高橋のぞみ”。卒業して会えなくなる前に、せめて皆の思い出の片隅に自分を加えてほしいという願いが映画の最後に叶えられ、6つ子たちからの感謝と共に映画は終わります。

映画の内容、最初から最後まで楽しく筋を追っていた私なのですが一回目最後まで見た後に思ったのは「これは高橋さんの夢小説なのか!?」という困惑でした。夢小説などという言い方は我ながら俗すぎると思いますが、それくらいこの映画は”高橋のぞみ”にとってあまりにも都合のいい夢に思えたからです。「おもしろかった!」という手放しの喜びより「何が起こったんだ……」という戸惑いが先に立ちました。
(注:夢小説とは二次創作において、読み手を作中に登場させキャラクターとのやりとりを楽しむための小説として私はここでは定義してます)

”思い出の世界”がこの世界の原因となる6つ子(作中では後悔しているのはカラ松とされています)だけでなく”高橋のぞみ”の夢もはらんだ世界だとするならば映画の意味合いが全く変わってきます。そうなると困惑しつつももう一回見て確認したくなるのが人情。そうしてまんまと何度も映画館に足を運ぶ羽目になってしまったのです。初見では戸惑いしかなかった”高橋のぞみ”の存在ですが二回三回と見るうちにどんどん印象も変化し、それにともない映画の印象も変わっていくのが面白かったです。

今ではこの映画を単純な彼女のドリームだとは思っていません。彼女の勝手気ままな夢というにはこの”思い出の世界”はあまりにもままならい空間だと感じたからです。

以下、映画公開前後に出た雑誌などの制作者発言なども踏まえつつ映画の世界観を考えていきたいと思います。

◆”高橋のぞみ”とは何者なのか?

――高橋さんは、どうやって生まれたのでしょうか?
「お客さんの立ち位置に近いキャラクターがほしかったんです。それで6つ子の動機になるなら、やはり女の子だろうと。6つ子だけだと話を回してくれる人がいないんですよね」(藤田)
(映画パンフレット 藤田監督と松原秀氏の対談21Pより)

「『おそ松さん』を応援してくださる方は女性が多いということは事実なので、そこは嘘をつかず、”そういう方々が感情移入できるキャラクターを1人置くことができると良いよね”ということころからスタートしましたね」
(spoon.2di vol.48 藤田陽一インタビュー37Pより)

以上の記述を見ると制作者側が”高橋のぞみ”をどういうキャラとして設定したか分かると同時に彼女のキャラ付けが作中あまりなされなかった理由も分かります。

”高橋のぞみ”は公式から見た我々女性ファンの最大公約数的存在なのです。
「お客さんの立ち位置に近いキャラクター」「感情移入できるキャラクター」という言い方が絶妙。はっきりとメタファーとするのではなくあくまで我々に「近い」だけ。多くの人々がそれぞれの思いを仮託できるように多くの隙間が残されたキャラなのです。

「18歳の6つ子っていうのは、お客さんも喜んでくれる要素だなと思いました」(松原)
(映画パンフレット 藤田監督と松原秀氏の対談20Pより)

この映画の内容を決めるうえでまず留意されたのはメインの客層である女性たちの見たいものをバーンと見せていくということ。何気にこれって今までのTVアニメでの話作りではなかった部分じゃないかなと思います。

TVアニメの『おそ松さん』は元々女性向けの作品というわけではないです。むしろかつて赤塚ギャグを楽しんでいた老若男女向けに自分たちも楽しいと思うものを作っていくというのが基本姿勢だったはず。

しかしながら、制作陣の思惑を外れどんどん作品は当初の意図を離れた感想を持たれたり、考察されるようになりました。それは『おそ松さん』の世界観が簡潔ながら非常にあいまいで、これという正解を持ちえないものであるからです。

一般的な原作付きアニメと比べても『おそ松さん』のストーリーラインには非常に数多くの思惑が絡み合っています。原作者の赤塚先生の『おそ松くん』、『おそ松くん』を元に元々の監督であった細川監督の考えた初期プロット(非常に重要な『おそ松さん』の原型といえるもの)、監督交代劇の後に急遽作られていった藤田監督&松原氏体制……。行きがかり上の問題も重なりお互いが競い合い同時に遠慮しあいながら手探りで作られることとなったのが『おそ松さん』です。そのため一期は誰か一人が最初から最後までかっちりと作ったテーマや設定がなく、どこか決定しきれない穴みたいなものが多数空いている状態なのだと感じてます。

私からするとその隙間こそが作品のスケールを広げ可能性をたくさん生み出してくれた素敵なものなんですけど、制作者側からすれば意図したテーマが明確に打ち出せていないと感じる部分でもあるかもしれません。やたらと難しい考察が幅を利かせた時期に「そんな何も考えてないですから」的なことを制作者側がよくおっしゃってた記憶ありますし。

だから、藤田・松原体制が固まり、他者の介在が減ったことで、作品のあいまいさを徐々に埋め、ガッチリとした筋を通そうという思いが芽生えても不思議ではないと思います。

本来のギャグアニメとしての作風に戻そうと迷走(?)したのが二期とも言えるんですけど、そこから一転「『おそ松さん』を応援してくださる方は女性が多いということは事実なので」とわざわざ語り、我々をずばりターゲットにしてきたのが映画の最大の特徴でしょう。

18歳の6つ子を出すというのはそこから決められ、どうやってそれを映画の世界に落とし込むかという逆算をしていった結果生まれたのが”思い出の世界”と”高橋のぞみ”なのです。

「とにかく”普通”というワードが話し合いの中でよく出ていました」
「6つ子のことが気になったり、手紙をかいたりするくらいだから”絶対に変な子だよ”という話もしていました。どこか抜けているか、独特の空気感を持っているだろうということで、そういう部分を足そうということになりました」
(spoon.2di vol.48 松原秀ロングインタビューP34より)

松原さんたちが抱く女性ファンたちのイメージってこんな感じなんですね。確かに6つ子たちを好んで愛好するくらいだから「絶対変な子だよ」と言われるとぐうの音も出ないんですけど(苦笑)。とりあえずファンの中でも特筆するような部分のない標準的な人たちをイメージしてるんだなと分かります。まさに最大公約数のファン。

これまでの経緯や二期までにかけた思いはともかくとりあえず映画では最大公約数のファンに向けて「ちゃんとした」ものを作ろう。そういう総決算の意思が”高橋のぞみ”からは垣間見えるのです。

◆18歳の6つ子たちとは

映画のティザービジュアルが公開されたときには皆が一様に驚いた18歳の6つ子たちの様子。それは現在の成人6つ子とはかけ離れた姿でした(一部除く)。

18歳たちの設定は一期が始まったころにはかけらもなかったものであり、考えてもみなかったものでしょう。二期まで続き劇場版ができたからこそ生まれたのです。

「TVアニメ50話でのあいつらのノリって、なぜあんな感じなのかというのがちょっとでも分かればいいなと思っていました」
(spoon.2di vol.48 松原秀ロングインタビューP34より)

松原氏がアニメ一期~二期全50話すべての6つ子たちの描写を鑑みたうえで作り上げたのが18歳の6つ子なのです。だからおそらく人気絶頂だった一期直後に映画化され同じような内容で作ったとしても18歳の6つ子たちはきっと今回のような性格はならないでしょう。

元々一期限りの記念作品であった『おそ松さん』がここまで支持され、皆からそれぞれの思いを投影された結果が”18歳の6つ子”たちと言えます。
言い換えれば”18歳の6つ子”というもの自体が『おそ松さん』にかかわる私たちファンの思い出の結晶と言えるかもしれません。

鳴り物入りで宣伝をしたわりに実は作中では18歳の6つ子たちの出番はそこまでありません。学園生活などもほぼ描かれることはないのです。そんな”18歳の6つ子”たちの情報が一気に出てくるのがエンドロールの写真群。これは作品への興味を持続させるためのテクニックとして演出されたものですが”18歳の6つ子”が私たちの思い出からできていると考えるならふさわしい順番かもしれません。

物語がすべて終わり拙いながらも「18歳の6つ子」たちのことを知った後に我々が想像しうる一つの形として提示されているのだとそう感じました(あれが正解ということではなく、そういう思い出も生まれうるという意味で)。

エンドロールで示される6つ子たちの高校生活が「写真」だけであるのはまさにそれらが思い出の産物であるということの象徴に思えました。

◆”高橋のぞみ”という分水嶺

この映画が結局何を目指していたのか。それを一言で語るのは難しいです。ストーリーラインだけを追うならとても単純で無難極まりない劇場版アニメとしか言いようがないですから。

ただ一回目に映画を見た後、微妙な違和感を感じつつも不思議と惹かれるものがあり二度三度と見続けるうちにその違和感の正体がおぼろげに見えてきました。6つ子たちの世界に”高橋のぞみ”が介入するかのような描写に違和感を覚えるのはようするに私が”高橋のぞみ”に対して強烈な実在感を感じているからです。よくよく考えれば6つ子たちと同じく”高橋のぞみ”だって制作者側が作り出したフィクションの住人しか過ぎないというのに。”高橋のぞみ”に対して6つ子とは別レイヤーに生きている人間のような感情を抱いている。

映画を見ているうちにだんだんと現実とアニメの境目が曖昧になるような、それは不思議な感覚でした。劇場のスクリーンという特殊な空間も相まって段々とこちらの世界とあちらの世界がつながっていくようなそんな気がしたのです。

”18歳の6つ子”は我々が見てきた『おそ松さん』を総決算する思い出の結晶である。この前提に沿って考えた時、”高橋のぞみ”というキャラクターは我々現実社会のファンとアニメという二次元の世界の狭間にたつ分水嶺のような存在なのだなと感じました。

「結局、最後まであの世界での出来事が空想なのか現実なのか、意味があることなのかないことなのかが分からず、あやふやなものの方が儚いですし、隙間があって好きだなと僕は思ったんですよね」
「カラ松と、あとは高橋さんの思い出の世界ですね。まあ、そこはあやふやであまり決め込んでいないです。なんとなく高橋さんの思いでも混ざってるよというくらいで。カラ松のあれぐらいの後悔で思い出の世界に行けるのなら、きっと6人ともそれぞれ後悔はあるでしょうし、6つ子の誰もがそれぞれの思い出の世界に行けると思うんですよね(笑)。今回たまたま行くことができたと考えると、やっぱりきっかけは”高橋さんの想い”になるんじゃないかなぁと。それがきっとうまく合ったからというか、タイミングが良かったんですよね」
(spoon.2di vol.48 藤田陽一インタビューP37より ”思い出の世界”について)

各種インタビューを見ると藤田監督は結構はっきりとカラ松の後悔に高橋さんの想いが重なったことで思い出の世界に導かれることになったと語っています。

逆の言い方をすれば”高橋のぞみ”≒女性ファンの最大公約数がいなければこの映画はそもそも始まらなかったということです。そのこと自体がこの映画が自分たちをこの映画という晴れ舞台まで連れてきてくれたファンたちへの感謝で作られているということを示しています。

”高橋のぞみ”という分水嶺を示したうえで黒猫(劇中において”高橋のぞみ”の魂ともいえる存在)という仮託キャラを劇中世界に送り込み、その黒猫が再び”高橋のぞみ”の元へ戻ってくる。そして黒猫と”高橋のぞみ”が一緒になったラストではついに「彼女が想像する」大人の6つ子たちと出会うのです。あたかも現実とアニメが邂逅したかのように。第四の壁(フィクション作品における現実世界との境界)の向こうからキャラクターたちがこちらに呼び掛けてくるのですよ! これまで『おそ松さん』という作品に多くの思い出を持てば持つほどきっと様々な感情をそこに垣間見ることができるでしょう。

これはまさに今までずっと6つ子たちを好きでいてくれたファンへのご褒美と言える映画なのです。実情はどうあれ少なくとも制作者側はそのつもりで作ったという意図は十二分に伝わりました。それだけでも深い満足を覚えたファンは多いでしょう。

ただし分水嶺を越えらるのはおそらくディープなファンだけですし、その先に見える景色も人によってさまざま。作品単体の完成度よりファンへの感謝を優先した映画でありそこは評価の別れる部分です。

◆分水嶺の先にある世界とは

分水嶺とは物事の方向性が決まる境目・分かれ目の例えとして使われる言葉です。”高橋のぞみ”というのは映画の世界へ我々をいざなう導き手とも取れますがどうもそういう受け取り方はしっくりきません。彼女は分かれ目として存在するだけで我々を積極的いざなう存在ではないように思います。

だから「分水嶺」と表現しました。”高橋のぞみ”はファンの代表でもあり、単なる物語のキャラクターでもあり、制作者側からの答えであり、救いであり、断罪であるといういくつものレイヤーを持つ複雑なキャラです。どの面を見るか、どの面を無視するか、あるいはすべて見るか。その選択は視聴者にゆだねられているのです。自覚的にしろ、無意識にしろ、ファンはそれぞれに選び取ったレイヤーで彼女というフィルターを通して物語に入り込むことになります。

ストーリーがシンプルで隙間だらけであるからこそ分水嶺の先に見えるものはその人が『おそ松さん』に抱いてきた積み重ねの違いによって全く違うものになってしまうのです。これが未知なる体験で私が何度も映画館に通ってしまった最大の理由ですね。

この映画は見る人によって姿を変える写し鏡。『おそ松さん』という作品やキャラクターへの無責任な期待や思い入れの開示を迫ってくる。楽しいばかりでなくなんとも気恥ずかしい行為です。映画について語るときファンは自然と『おそ松さん』に対してどう考えていたか、ひいては映画をそういう風に思う自分がどういう人間であるかを語らずにはいられないというか語る羽目になってしまう。劇中で黒歴史を暴かれている6つ子たちよろしく我々も自身の思い出を暴かれていき、まるで映画館が同窓会の会場になったかのよう。

これはほかの作品であってももちろんある現象ですが、今回の映画はファンが自身に内在するパーツをはめ込むことで真の完成をみるつくりになっているためディープなファンであればあるほど避けて通れないのです。

特に”高橋のぞみ”に関する扱いはそのままその人が『おそ松さん』という作品をどう扱っているかということを示す分かりやすいリトマス試験紙になっていると感じます。そういう意味ではとても意地悪で怖いキャラクターだなとも。一回目に見たときに「夢小説の主人公か!?」と思ってしまった自分自身への気まずさをこうやって感想をしたためている間にもじわじわと感じてしまってやるせないです。

なぜなら我々に近いキャラとして描かれた彼女に対して都合のいい夢を見過ぎでは?と感じることは私が普段6つ子たちに対して都合のいい夢を抱きながらそれに対して後ろめたさを感じる裏返しでもあるからです。そんな夢すら見たことのない一般層のファンは普通に高橋さんよかったねと思うだけですよ。

分水嶺の先にある世界は良くも悪くも自分が今まで見てきた『おそ松さん』すべてをひっくるめた自身の思い出と言えるかもしれません。

◆同窓会で卒業式

この映画が単なるファン感謝映画で済ませられないのは分水嶺の先にあるものが必ずしも花咲き乱れる楽園とは限らないからです。できるだけ多くのファンにこたえようという意思はあるものの制作者がどうしても譲れない一線はあり、そこに入り込めない壁を感じる人も多少出て来るでしょう。女性ファンのための映画としながらその標準的女性ファンの枠に漏れてしまう人もいるということです。

この映画は良くも悪くも総決算なんですよね。アニメ一期~二期までのすべてを映画は内包しています。それがプラスに働く部分もあるし逆にマイナスとなることもある。私はなんだかんだ言って一期も二期も別物ではあるけどそれぞれ好きというタイプのファンですけど人によっては一期は好きだけど二期はダメだとか逆に二期の方が好きだとか同じファンでもいろんな人がいると思います。

しかし視聴者側がどう思おうと制作者側にとっては今まで紡いで来た物語や6つ子たちはすべて可愛いわが子です。誰が何と言おうとこれが正史だし今後もこの世界は変わらない。映画はファンへの感謝の手紙であると同時にこの世界の成り立ちを宣言する決意表明でもあります。たとえ思い出の世界という形でぼかされていようとも”高橋のぞみ”という制作者が作った理想のファン像によってその世界が祝福されたという事実は変わらないのですから。

冒頭でトド松が同窓会の日取りが自分たちの卒業式の日に合わせて決められたと話すのですがこの二つの行事をあえて同じ日に設定したということをわざわざ強調するのもなんだか恣意的に思えてしまう。この映画は好意的なファンには久しぶりにファンの皆が集まって松のことを語り合う同窓会であるし、逆に相いれないファンには永遠の卒業になりうるのではないでしょうか。ジャンルの卒業にこんな盛大な式を用意してくれるのは親切なのか残酷なのか……。この映画が自分にとってどちらになるか、その答えは我々の心の中だけにあるのです。

◆総括

とにかくこの映画、単純に「お勧めです!」とは紹介できない。私は大好きだけどそれが万人に通じるかどうかましてやファンでない人が見てどこまでおもしろいのか判断が難しいです。

上記してきたようにおそらくこの映画は本当に見る人によって全く違った印象の物語になっていると思うからです。分水嶺の先にある物語は千差万別。どんな景色が見えているのか本当に分からない。だからここが面白いポイントですって解説しにくいし、表面的なストーリーを解説しただけでは面白いと思ってもらえる自信がない。だからと言って”高橋のぞみ”の立ち位置についてネタバレしてしまうと映画の面白さが半減どころじゃないという。

ファンが過剰にネタバレを恐れるあまりSNS上でのアピールが足りないと言われたりもしましたが、お話の性質上分かりやすい魅力を部外者に説明するのが難しい映画だったせいもあると思いますよ。口コミで広がるにはそもそも不利なタイプのストーリーじゃないかなと。パッと人目を引くようなキャッチーな売りはあんまりないですもんね。

意外と一番楽しめるのは「『おそ松さん』ちょっとだけ見てました」くらいのライトなファンかもしれない……一期二期全部知ってる方が楽しいけど逆に知らなくても全然平気なのでその点では安心して勧められます。

最終的に映画に関して諸手を挙げて大絶賛はできないし、高橋さんを自分の分身と思うほどには共感はしないのですが、映画を見たときに私が感じた思い出の世界が私のいる現実と地続きになったような感覚は間違いなく本物だったのです。とても遠い映画館でやっていたので電車で時間をかけて通っていたのですが時期的に本当の卒業式帰りの学生さんと出会うこともありなんだか同志であるかのような不思議な錯覚したのを覚えています(注:私はもう学生時代をとうに過ぎたいい歳の女です)。劇場の売店で買ったパンフレット(トップ画像にある卒業アルバムを模した赤い冊子)を握りしめながら帰りの電車の車窓から見えた桜の花のことが今でも印象深い。映画を見ていたあの瞬間私は確かに赤塚高校の卒業式に参加していたんです。何はなくともそれは間違いなかった。だから何度でも映画の中の彼らに会いたくて出不精な私が5回も映画館に通ったのです。

その時の感覚は思い切って劇場へ行ったからこそ得られたもの。DVDやブルーレイとかではなくあの季節にわざわざ出向いたということには間違いなく意味があったので私にとっては今でもよい映画であったということは胸を張って言えます。その事だけは記録しておかねばならないなぁと筆をとって今更過ぎるこの感想文を書いています。

実はこの記事2019年夏ごろに書き始めて中盤くらいで行き詰まり途中で下書き放置していたのです。ですが、もうすぐ再び3/15。映画一周年の区切りということで埃をかぶった書きかけの感想文を引っ張り出してきました。一ファンのつたない記録として残しておこうと思います。

それにしても映画は一見すがすがしい前進を描いているようでいて、一期~二期を経た上で再構築された6つ子たちのあらたなモラトリアムワールドであるなぁと感じます。ギャグアニメの閉じた世界はどこを切り取っても所詮モラトリアム。何をしたって結局同じなのです。劇場版となると本編とは打って変わって能動的な物語が描かれがちなものですがここまで開き直って変わらなくたっていいじゃん! とアニメと同じ世界観を貫いたのは私は嫌いではないです。

こういった世界観を映画のキャッチフレーズのように「どんな思い出も ぜんぶ宝物。」と思えるうちは我々は狂った同窓会をこれからもしばらくは続けていこうではありませんか。


この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?