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コーチングとは「欲望形成支援」である

「コーチング」と耳にしたとき、どのような印象をもつでしょうか。


大体の人が「なにかを教えること」と考えると思います。野球とかサッカーとかバスケとかで指示を出している人。そんなイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。


次に多いのがおそらくビジネスの文脈におけるコーチング。「部下の生産性を向上させるためのコミュニケーション」とか「自発的な行動を促すためのモチベーションを向上させるスキル」とか。


あとは、もう少し抽象度が高く強めな表現で「人の可能性を解放するための対話」とか「クライアントの本質的な変化を促すための関わり」、みたいな表現をする方もいるかもしれません。コーチングを提供している人はこういった表現が多いですかね。


どれが正解とかは正直ありません。コーチングってコーチングを学ぶためのスクールがたくさんあり、教えていることも画一的ではなく、かつ、そもそも自由度が高くコーチのもっている経験やスキルによってかたちがバラバラになるからです。「漫才」とひとくちに言っても同じものがないのと一緒で、例え同じネタでもテンポやニュアンスが変わると全く別物になる。


てなわけでプロコーチとしては「自分の提供するコーチングがどんなものなのか」については、常に言語化してクライアントに伝えることがサービス提供者として誠実だよなあと思っていながらも、いつもめんどくさくてやめてしまいます。


ですが、去年もやって今年もやらないとバチが当たりそうなので、ちゃんとやりたいと思います。大変なので正直やりたくないですが…。

▲去年のはこちら


結論としては、タイトルにもあるように「僕のコーチングは欲望形成支援である」が今のところ一番しっくりきているので、今日はそちらについて書いていきます。


コーチングは「対話」である

コーチングは人によって提供してるものがバラバラと書きましたが、共通しているものはあります(スポーツにおけるコーチングはまた別)。

  • 一時間程度の対話

  • 基本的にコーチが質問してクライアントが答える

  • コーチには守秘義務がある

こんな感じ。コーチによっては体を動かすことを促したり、人の気質を分類した分析ツールを使用したりする方もいます。

オプション的に、対話のメモを渡す人やグラフィックレコーディングしたものを提供するコーチもいます。僕は編集の仕事をやっているので、そのスキルを活用して話していただいた内容を編集して一枚絵にしてお送りしています。


味付けはコーチによって異なりますが、「コーチングは主にコーチの質問とクライアントの回答を主軸とした一時間程度の対話なんだな」と思っていただくと問題ないと思います。なのでもし「コーチングを申し込んだらスプーンで殴られた」みたいなことがあったらそれはコーチングではありませんのでご注意ください。


この「一時間程度の対話」の中身──対話で何を目指し、何を重視し、どんな資源を用いて、どう進めるのか、がコーチによって異なる。
これが一口にコーチングといってもコーチによって提供するものがバラバラになっている理由です。

コーチングを受ける側からしたらややこしいですよね。同じ名前で提供されているものがバラバラなのですから。ラーメンを注文してチャンポンが出てきたら戸惑ってしまいますよね。だからせめて自分のコーチングぐらいはちゃんと説明しないとな、と改めて気合を入れ直したところで「僕のコーチングとは欲望形成支援である」を説明していきます。


「欲望形成支援」。文字だけ見ると漢字が並んでて固いので、

  • 「欲望」

  • 「形成」

  • 「支援」

の3つに分解してやっていきます。

ではさっそく「欲望」についての説明、の前にまずは「欲望形成支援」という言葉との出会いについて少しだけ説明させてください。


「欲望形成支援」との出会い

ちょっと話が逸れるのですが、言葉には「意味」と「感覚」があるなと思っていて、この「感覚」が自分にハマるかどうかを重要視しています。

たとえば、「ご自愛」ってあるじゃないですか。「どうかご自愛くださいね」ってやつ。自分を大切に扱うこと。意味に関してまったくの同意で大切なことだと思うのですが、「感覚」が個人的にハマらないんですよね。「自分を愛する」ってなんだか難しく感じてしまうんですね。


なので自分自身を大切にしてほしい人には「健やかにお過ごしくださいね」と言うようにしています。厳密に言うと意味は違うのですが、こっちのほうが僕としては「感覚」がバチッとハマるんですよね。



こういう風に「自分の感覚に嘘のない言葉をつかう」ことが対人支援者として大切です。自分に嘘のない言葉をつかうようにしていないと、クライアントの言葉に違和感を感じられなくなっていくからです。このへんの話は後ほど詳しくしますね。


コーチングではよく「ありたい姿」という言葉が使用されます。コーチングとはクライアントの「ありたい姿」を描くためのコミニケーションである、と。


僕はこの言葉がずっとしっくりこなかったんですね。先ほどの「ご自愛」のように、意味は同意だけど感覚がハマらない。なので、他になにか適切な言葉がないかな、と思っていたところで出会ったのが國分功一郎さんの「欲望形成支援」という言葉でした。

▲こちらに詳しく書いてあります。

「ありたい姿」ではなく「欲望」。そしてその「形成支援」。國分さんはもちろんコーチングのことを指してはいませんが、僕はこんなにもコーチングを端的に表す言葉があるのだと感動しました。それ以来この言葉を拝借し「僕のコーチングは欲望形成支援です」と言うようになりました。


「欲望」について

まさかの前置きで2000字を使ってしまいました…。ここから「欲望形成支援」の「欲望」について説明していきます。


「やりたいこと」は怖くない

欲望。この言葉を聞いてどのような印象を抱くでしょうか。僕は前述の通りいいなあと思ったのですが、人によってはネガティブな印象を持つ方もいらっしゃるかもしれません。



僕の中で欲望は「クライアントが望んでいる自分の状態」を指します。その人が何をして、誰といて、どこにいる状態が望ましいのか。特に大切にしているのは「何をして」の部分です。


これは尊敬する精神科医・神田橋條治先生の「精神療法の目標は自己実現であり自己実現とは遺伝子の開花である」という言葉に影響を受けています。


人にはその人だけの遺伝子の開花──やりたいことをやろうとする自然な欲望がある。この考えが僕のコーチングに大きな影響を及ぼし、その実現のために修行を積んでいます。


「やりたいこと」と聞くとウッとなる方もいらっしゃいますよね。僕もそうだったので。おそらく、その時の「やりたいこと」って「なりたい職業」と捉えてないでしょうか。なにをしてお金を稼ぎたいか、と聞かれているような気がして、そう聞かれると拒否反応が出てしまう。


けど、「やりたいこと」はもっと広い世界にあります。それは花の世話をすることかもしれないし、美味しいコーヒーを淹れることかもしれないし、イラストを描くことかもしれない。お金と結びつけなくてもいいんですね。遺伝子の開花をしながら、つまり自分の自然な欲望と向き合いながら、そのあとで資本主義との折り合いをつければいい。


ラカンと欲望

そんな欲望について、こんなことを言った人がいます。


「欲望は、他者の欲望である」

精神科医のジャック・ラカンです。自分のコーチングを「欲望形成支援」と定義してからぶち当たったのがこの「欲望は、他者の欲望である」でした。


この言葉が真実なら、僕がクライアントと一緒に発見している「こんな人生にしたい」や「こうなったら自分は幸せになれる」、「自分の人生の目的は〇〇だ」といったものが、クライアント本人の欲望ではなく、クライアントの周りにいる(または存在していた)人の欲望である、ということになるからです。


こんな悲しい話がありますか。苦労して苦労してやっと手に入れた自分だけの宝石。しかし、その宝石の裏側を見ると「Aさんのもの」と他者の名前が貼られている。そして宝石探しを手伝ったのが僕だったとしたら。だとしたら、僕のコーチングに何の価値があるのか。

しかし、この「欲望は、他者の欲望である」という言葉について、文字を見るただけではラカンの真意を見出すことはできません。少しだけ話を迂回したいと思います。


言葉の獲得が欲望の獲得

ラカンは人が言語を獲得することについて、母と小どもの関係を用いて説明します(ここでいう母は必ずしも血縁関係のある母ではなく、最初に言語をもってして子どもとコミュニケーションをとる存在という意味です)。


母は子どもに言葉を投げかけます。子どもはとても弱い存在なので、一人では生きていけません。なので、母から投げかけられる言葉から「この人は何を望んでいるのか」を察する姿勢が求められます。


つまり、母から言語を獲得することは、母の欲望を問うことでもあるのです。そして、母が何を望んでいるのか、この母の欲望を問うプロセスによって、子ども自身の欲望が形作られていく。このメカニズムをラカンは「欲望は、他者の欲望である」と表現しました。


単調な例でいうと、自分の子どもに医者になって欲しいと願う母のもとで育った子どもは医者を目指します。自分の子どもに「立派な大人になってほしい」と願う母のもとで育った子どもは、母の描く「立派」を自分の中に定義していきながら、そこを目指すようになります。


このように、母(他者)から言語を伝達されていくなかで子どもの欲望が形作られていく。そして、人の欲望は必ずこのメカニズムによって作られる。とラカンは言いました。



勘の良い方はもしかしたらお気づきかもしれませんが、この「他者」は「社会」とも言えます。「欲望は、社会の欲望である」。社会に「男は男らしく女は女らしく」という風潮があれば、子どもはその「欲望」に絡め取られてしまいます。


ここで問題になるのは、他者から獲得した欲望と自分自身とが不一致になった場合です。母は立派な人になって欲しいと思っているが、子どもがその「立派」に対して違和感がある。そうなると、子どもの遺伝子の開花はなされません。人の生きづらさの多くはこの「他者の欲望と自分の欲望との不一致」から生じているのではないか。そう考えるようになりました。


「形成」について

ではそんな難しいクライアントの欲望について、僕がどう向き合っているのか。抽象的な話が続きますがご容赦ください。この形成は「確認」と「形成」の二つから成り立っています。

確認

さきほど「他者の欲望と自分の欲望とが不一致な場合がある」とお伝えしました。これがやっかいなのは、不一致になっている状態を自覚することが難しい、という点です。


自分は〇〇みたいな人間になりたいのだけど、実際は全く違う人間であって、そんな自分であることが苦しい。理想の自分と実際の自分のギャップに苦しんでいる。

といったパターンってよくあるのですが、この場合「自分は〇〇みたいな人間になりたいのだけど」が他者の欲望で、自分の欲望ではないことが多々あるんですね。


そこで行うのが「確認」です。クライアントが描く欲望が他者の欲望ではなく自分の欲望となっているのか。具体的には、欲望を語るクライアントの観察によって行います。一つは非言語の情報による確認。表情や声のトーン、話すリズムなどを観察しながら、クライアントが納得感をもって発話しているかを見ていきます。


もう一つは言葉の観察。特に欲望を語る言葉の連続性を観察しています。たとえば、温和な言葉選びをするクライアントがふと「復讐」と口にするとき、そこにはなにかしらの「他者」が強く介在している可能性が高い。


そんなときは特にその欲望の拠り所を注視しています。冒頭で「自分の感覚に嘘のない言葉をつかうことが対人支援者として大切です」とお伝えしたのは、クライアントの言葉から他者の存在を感じる力を育むためです。


形成

「形成」のなかの「形成」、とはなんとも言葉遊びみたいですね。コーチングはコーチによって提供するものがバラバラなのですが、誰のどのコーチングにも共通する大切な心構えがいくつかあって、その中に「答えはクライアントの中にある」があります。


僕はこれを「欲望はクライアントの中にある」に変換しています。もう少し正確に表現すると「欲望とその欠片はクライアントの過去にある」となります。


コーチングではクライアントの理想の未来を描いていくことが多いんですね。コーチの質問としては「3年後どうなってたいですか?」や「〇〇さんの理想の状態ってどんなものですか?」といったものになる。

それでスムーズに出てくればそれが欲望の形成となります。このように、対話の中でクライアントに欲望を発話してもらうことを「形成」と呼んでいます。そこから先ほどの「確認」をやっていくのですが、するっと欲望が形成されない場合も多いわけです。


そんなときに僕が探しているのが「欲望の欠片」で、それはクライアントの過去に散らばっていいます。「欲望の欠片」はその人の過去において夢中になっていたことや他のことよりもやっててマシだったことを聞くと出てくることが多い。



そして対話において出てきた「欲望の欠片」たちを集めてくっつけ「擬似欲望」を作り、それをクライアントに投げかけてみます。「ここまでの話を聞いて◯◯と◯◯には繋がりがあるような気がしているのですがいかがでしょうか?」や「◯◯と◯◯には通底するものがある気がしていてそれは◯◯ではないでしょうか?」みたいな感じで。


これは僕が編集の仕事をやってきたことが大きく影響しています。編集の仕事は読んで字のごとく「集めて編むこと」。クライアントに見出した「欲望の欠片」を集めて、その人だけの欲望に繋がるような物語を編めるよう努めています。


クライアントの欲望に他者がどれぐらい混じっているかを観察する「確認」とクライアントに欲望を言葉にしてもらう「形成」。この二つは明確に分かれるものではなく、コーチング中ずっと同時進行で行っています。



「支援」について

「形成」で大切なことをもう少しだけ。先ほど「擬似欲望」を作ってクライアントに投げかけてみる、とお伝えしました。その際、提案した「擬似欲望」が正解でなくてもよいんですね。クライアントが「う〜ん。それは違います」と答えてもそれはそれでいいんです。

目的は欲望の形成であって、僕が欲望を言い当てることではありません。欲望の欠片を集めて物語としてクライアントの前に出し、それを眺めたクライアント自身が欲望を言葉にできるよう支援することが「欲望形成支援」なのです。


クライアントが「う〜ん。それは違います」と答える時、自然と思考は「これは違うな。じゃあ自分が望んでいることってなんだろう」と転がっていきます。欲望にたどり着くための道具として「擬似欲望」は存在するのです(当たり前ですがこの「擬似欲望」はクライアントとの信頼関係があってはじめて効果を発揮します。信頼関係なき「擬似欲望」はただの決め付けとなるので注意が必要です)。


ここで一旦話をラカンの「欲望は、他者の欲望である」に戻します。

ここでいう他者は母(言語の提供者)であったり社会であったりしました。では、コーチングの場においてクライアントにとって「他者」となるものは誰か。そう、コーチングにおいてはコーチがクライアントにとっての「他者」となるのです。


なんとも恐ろしいことだと思いませんか。クライアントの欲望がコーチの欲望によって形成されるのだとしたら。当たり前ですがコーチの欲望はクライアントの欲望と一致しません。不一致の欲望を抱かせてしまうとクライアントの人生をサポートするどころか逆に生きづらさを与えることになるのです


そうならないためにコーチが行うのはあくまでも「支援」であるという認識が欠かせません。欲望を形作る主体となるのではなく、クライアントが欲望を形成するためのサポートをする。主体は絶対にクライアントである。その認識をぶらさないことが大切です。


とはいうものの、コーチングにおいてコーチが完全に他者の役割から逃れることができないことも事実なんですね。そして、コーチが勇気をもって他者の役割を引き受ける姿勢がクライアントの欲望形成に寄与できる瞬間があると僕は考えています。


クライアントの欲望にコーチの欲望を混ぜないよう他者になることを避けながらも、クライアントの欲望形成に寄与できるよう他者の役割を引き受ける。矛盾してますよね。しかし、この二つを両立させることが対人支援者としての極意なのではないか。そう考え修行する日々です。来年の今頃はまた違う話をしているかもしれませんが。


以上です!

いかがでしたでしょうか。ここまで約7000文字なので、読んでくださったあなたは偉人です。ありがとうございました。


最後に念を押しとくと、これはあくまでも僕のコーチングの話です。ラカンと神田橋條治先生を師とするコーチは他に見たことがありません。僕の欲望形成支援は僕にしかできないし、僕は他のコーチが提供するコーチングを提供することができません。その点ご注意くださいね。


自分の提供するコーチングを説明しようと書き始めてあれよあれよと遠くまできてしまいました。コーチングを知らない方が読んだら「??」となるかもしれません。それに関しては今土下座をしながらこの文章を打っているのでご容赦ください。


自分勝手なことをいうと、こうして自分のコーチングを言葉にできて嬉しい気持ちです。僕の欲望を形成することに繋がりました。とすると、このnoteを読んでいるあなたが僕の「他者」ということになりますね。ありがとうございます。とても素敵な「他者」でした。またお会いしましょう。


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参考図書



お松のコーチングについて


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