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【私が忘れたくない日】


思い出したらどんどん増やす。 
ここに追記するかは、わからない。


●2008年の八月(小学校一年生)
幼稚園のころ住んでいた団地の、幼馴染みではないほうの男の子。
あとはその妹ちゃん。
母親同士の仲が良く、小学校を卒業するまで
毎年夏休み冬休み春休みに枚方パークへ連れられた。
急流すべりと、動物の的を銃で打つゲーム、
連打したらカードが貰える迷宮を
なんかいもなんかいも、一日中はしごした。
なに喋ったか覚えてない。
頼りないチェーンの空中ブランコにもよく乗った。

もう親しか彼らの実家の住所(引っ越しているかもしれない)を知らないし、
二度と会うことはないだろう。
本名も知らない。

しゅうくんとあやちゃん。

🎢


●2009年の四月(小学校二年生)
わたしが一番すきな女の子、
🌳ちゃんに初めて声をかけた日。

I市立M小学校二年二組、
自己紹介の時にじぶんの「ささき」という
名字を「さささ」と本当に間違えて黒板にかいて、
みんなに愛されていた、でも怒るときに声が大きいばかりで、そこだけきらわれていた
新人の先生が担任だったクラス。
宮川大輔みたいなデカ黒渕眼鏡の先生。
私の出席番号はきっと28。

四月のはじめの中休み、
掃除用具箱の前の日当たりが良い席で、
向かい合わせに座り
ななこちゃんと手あそびをしていた彼女に
(🤙←こんな形の)

「それなあに?」と声をかけた。

以後、高校で離れるまでずっと一緒にいたし、
これからもお互い忙しくても二年に一回は会うと思う。

彼女は、ムニュマムという会社のぬいぐるみを
溺愛していて、川でなくしたら
新しいのを買いまた愛していた。
今は三代目で、ビッグサイズももってるらしい。

たーくん。
たーくん二号。
たーくん三号。
デカたーくん。
と名付けられていたしっぽがかわいいライオンたち。

私もタコのチャーム
(たこつぼっていう。名付けた。)と、
ダイオウグソクムシのマグネットを持っている。
唯一彼女が誕生日にくれたシロクマは彼女と
公園で遊んでいるときに失くしてしまった。

電話かとおもった

🤙  これは

彼女たちがつくりだした いきものだった。
人形遊びといっしょに、
私たちは二つの両手でいろんなところに旅をした。


🦁🐙🐻



●2010年の六月(小学校三年生)
パナソニックの電池工場に向かう郊外学習のバスで、
🌳ちゃんと座っていた後ろに、
今もLINEをしている👓️くんともう一人、
男の子が座っていた。
初恋の人。
五年生の野外活動のとき、大量にたまった
黒こげの飯盒を一緒に洗った。
中学校一年生のとき、庭で星を見ながら
電話したし、塾の帰り道に信号で、
すぐそこの家に住む彼と自転車で20分かけて
かえらなきゃいけない私はずっと喋っていた。 

エメラルドブルーの服をずっと着ていた。
黒と水色のダウンをいつまで着るんだって
くらい着ていた。
三年前、高2のとき駅で見かけたときも着ていて驚いた。
ランドセルは深い緑をしょっていた。
六年間ずっと好きだった。
告白はしていない。
ゲームが好きで、最後はスプラトゥーンをしていたんじゃないかと思う。
私が持っているのは3DSとWii(おさがり)だけだったので、
スマホを持つまではは友達リストのコメントで、やりとりをしていた気がする。
古のプロフィール帳の性格欄に『やさしい』と
自分でかく、実際やさしいひとだった。

  

🎮️


●2011年の3/11日、3/14日(小学校四年生)
地域で強かったハンドボールクラブに所属し、
キーパーを中学を卒業するまで担っていた
🌳ちゃんが忙しくなり、
彼女と少しだけ距離が離れた年だと思う。

この一年は
もう一人仲がよかった女の子
(こちらはもう連絡をとってない。)
ピアノとお菓子作りが得意で、
昔は走るのが遅かったけど高校で陸上部に入った彼女とよく遊んだ。
シルバニアと料理は彼女に教えてもらった。

🎶


・3/11

3月うまれの彼女の
誕生日パーティーをわたしの家でした日。
わたしがつくった
彼女が作るものにくらべたら拙い手作りケーキを
食べているときに警告音が流れ、
地デジの分厚い箱から薄型に変わったテレビで
東日本大震災の、津波に流れる車をみた。
このころからビデオデッキで録画番組を
再生することは無くなった。


・3/14

この年は先述の通りで少しさみしく、
名前も覚えていない友達(あだなはトンピー。こぶたが好きだったから。お父さんが工場で働いていて、部品で作ってもらったという
キーホルダーをいつも嬉しそうに持っていた。)
と、休み時間は給食室のおじいちゃんのところに遊びに行っていた。

バレンタインには手作りのチョコクランチを
水色と白のはながらのアルミカップに入れてたぶん渡した。

3月14日ホワイトデー。
お返しに、アンパンマンチョコのつめあわせ─
100円くらいでうってる棒つきのキャラの顔チョコがたくさん入ってるやつ─を、
トンピーとわたしに一つずつくれた。

とっても嬉しかったんだよな、
私、昔から贈り物がすきだった。
当時からお返しはもとめていなかったし
もらえなくてもいいと思っていた。


🐷




このおじいちゃんには年賀状も
中学二年生くらいまで出していた。

幼稚園の時住んでた団地の隣の部屋のおじいちゃん。
(キレると物を投げる父親と叫ぶ母親の喧嘩が始まったら逃げていた。カレーに入るはずだったニンジンが飛んだときは
幼心におもしろいと思った。おじいちゃんに
もらった白黒のビックリ箱は父親に壊された。)
このおじいちゃんと給食のおじいちゃん、

同性同名だったのでちょっとややこしかったんだよな。

まだ、ご存命だろうか。
所在をもう知らない。
山に登る人だった。



・夏

そういや。Wiiスポーツリゾートの
バスケットボールで、いとこを真似して
ダンクをするときに飛びはね、カーペットの
紐にひっかけかって転倒、左腕を
骨折したのはこの年の夏休みだった。
幼稚園のとき喋ってくれたお姉さんのもとに
駆け寄りつまづき溝に顔面を
つっこみりょうほほをただれさせた時以来の
通院だった。今はほぼ完治したアトピーを除いて。

🏔️

通院といえばもう一つひどかったのは
花粉症だが(小学校のときは卒業式の長い練習で
毎年箱テイッシュを二つ装備していた。)、
今はもう完治している。

奈良県、吉野杉が有名である。
私の中学校や近所の高校はイカれていて、
初年度の生徒の数の杉を校舎の周りに植えていた。
先生や生徒は花粉症不回避である。
ふつう桜やイチョウだろうよ。
銀杏が匂いを招き桜は毛虫を招くけど。


👹


●2018年12月24日(17歳)
はじめて告白してくれた人と私からお別れした。
演劇部の人。
もう同窓会くらいでしか会わない気がするが、
同い年男女比率ほぼ1:1の部活で、
まあそれなりに色々あった(私は相談をよくされた)ので
あうこともないんじゃないかとおもう。
演劇部が利用したあと、
強豪である吹奏楽部が夜練する講堂に
水筒を忘れた彼を、応援して一緒に取りに帰ったことがある。

🎄


(2023/4/2/sun追記)あのこからcDを借りていて、部長決めのころで、鋭く眼差しを向けたり悪いSnSの使い方をしていた。
今 どうなってるんだろう、
数日前、バイト先のスタバの先輩卒業おめでとうストーリーをのせていた。
メガネのあやつもふわふわでほそいあのこも
彼もコーヒーをしている、類は友を呼ぶってほんとなのかも、たくましくて、皮膚炎で、卒業式のひに
あかるいあのこに想いを伝えた、らしい、あのひとはなにをしてるんだろうか。きっと大学院にいくんだろう。
京都にうかったのかすらしらない。
()


●2019年度
四月、部活の公演の美術作りで
発泡スチロールを加工しているときに
ふとももをカッターで突き刺し四針縫い、

卒業間近の三月、GFT3の小道具の懐剣を、
木を削って作っているときに
親指の根本をカッターで突き刺し
血を流した年度である。


🩸

3年後に親指をカッターで切って その1ヶ月後ぐらいに足の爪を割って その翌日に左右手の人差し指の爪 終わるよ 2個 ご利用を落としたし パープルで先生いなくて急いでトイレ行ってぶつけて運べ と DM を落としたよ


・8月5日(17歳)

吹奏楽部には三年間同じクラスで
出席番号が前後だった、広島出身のやさしいかわいい恋多き純粋な女の子がいた。

演劇部と中学のオタク友達の影響で
培われたばっっっか長い長文感想を、
最後の定期演奏会とコンクールの後にLINEしたことがある。

送った後で「これは引かれるんじゃなかろうか」と
わたしは焦ったが、
やさしい彼女はよろこんでくれて、
翌日の教室でも
「ありがとう。すっごくうれしかった。
はじめてこんなに感想を貰った。」
と言葉をくれた。

疲れているとことばにすることはむずかしくなるし、
だんだんないがしろになっていく、
限りある言葉だというのに自分の知ってる言葉しか
使わなくなっていく。と思う。
わたしはことばで伝えることを、
諦めたくないとこのときに思った。

最後の彼女たちの夏がかかったコンクール。

ダメ金だった。


そもそも関西には「オレンジの悪魔」と呼ばれる
橘高校があるので彼女たちが全国に進むことはなかった。 
そんなこと関係なく三年間をかけた彼女たちを尊敬している。

🥁



○担任のK先生。



(恋愛的にではなく)
現代文メインの国語教師、
当時28か29歳の担任の先生が大好きだった。

授業をすることが好きで、人に話しかけることが好きで、サーティワンが好きで仕事早帰りの日にイオンによって食べることが習慣のくせにポッピングシャワーを『パチパチのやつ』と呼ぶかわいいひと。
陸上競技場を借りて行われた
人生最後の運動会のときには、
もう一人の担任オタクの女の子と一緒に
カメラでたくさんの写真を撮った。
自分のことを話すのが好きらしく、
授業中の雑談はほとんどがそれだった。

パイロットになりたかったけど視力が足りなくて、
30代に突入することを恐れていて
黒いナイキのスニーカーをいつもはき潰していて
ちょっとロマンチックで
観覧車のてっぺんで歳上の奥さんにプロポーズをし見事結婚、
うまれて一年目の子供を溺愛し
LINEのホーム画面にしているたくさんの本を読むK先生。
学生時代はマクドナルドのバイトチーフを長年やっていたらしい。


家族の相談に乗ってもらったり、
誕生日プレゼントにペンを渡してみたりした。
わたしは現代文が一番すきだったので、
それなりに気にかけてくれていたのだろうと思う。

休み時間など生徒の机のそばに
喋りかけにいく犬みたいな先生だったが、
私はそんなに明るい性格ではなかったので
教室ではあまり話したことはなかった。
が、進学校(公立ではある)であり
大学進学以外の生徒は毎年多くて三人の我が母校で、
私が現状に至る契機になった紆余曲折進路相談に最後まで乗ってくれた。




卒業式の日も言葉を交わすことはなかった。

国家及び校歌斉唱が録音放送だったコロナ媧の
はじまりの年の卒業式終了後、
教室で卒業証書を担任から卒業生へ手渡していく時間。

ひとことひとこと生徒に声をかけていた担任。
私の時、言葉はなかった。


6、7秒くらいだろうか。
卒業証書を強く握りしめ、
けっしてパッチリとは言えない一重の瞳で、
よく笑う口を一文字に結んでわたしを見つめ、
ただこくりと一回首を振り下ろした。
(貰おうと引っ張ったけど
取れなかったし、私の思い違いではないと思う。)

  



卒業式。

小学校は
病院に直行してインフルエンザと診断された。
最初で最後の(今のところ)インフルエンザ。


中学校は特になにもない。
🌳ちゃんと男子が建物から下駄箱エリアの
屋根に向かって投げる上履きを眺めていた。
卒業アルバムの白紙ページはそれなりに埋まっていた。
やたらカクカクの字でかかれた名前や
一ページまるまるつかいやがる名前、
かわいいうれしいカラフルなコメントたちで
溢れていた。

高校の演劇部写真の集合写真には、
数学が苦手なくせに黒板用の
デカ三角定規を両手に構えてうつった。
みんな何かしら仮装していたんじゃないか。


冒頭で、ふとももをつきさしたときに
だらだら血が流れるのがおもしろくて
案外痛くなくてけたけたへらへら
わらっていた私を病院まで送ってくれたのもこの
担任である。

後輩ちゃんの方が顔面蒼白だった、ごめんね。



K先生、この恩師を私は忘れない。


教育機関に半強制で入る
世間でいわれる子供の期間が終了した。

🌸


───────────────
───

中三から高二までかけていた眼鏡。


小4のころから目が悪い。
進行性の近視と乱視。
最新の一生使いたい銀縁眼鏡は六代目。




───────────────
───


●2020年12月(19歳) 
高校を卒業間際に参加した企画公演より
演劇に足を踏み入れて九ヶ月。
参加していた短編戯曲講座の卒塾公演があった。

第四期塾生12人の十分作品を、
関西をときめく演出家さんが
キャストを選んで演出する。


私を担当していただいた方が、本当に魅力的だった。

少年のようなこころ、本当に少年のような
こころをまだもっていた。純粋に世界を、
にんげんを眼差す人だった。


この人の紡ぐ言葉と作品と演出が私は大好きだ。
2021年、同級生が立ち上げ私も旗揚げメンバーであった演劇祭に
審査員としてお越しいただき、コメントを
いただいた際も、
だれよりもうつくしく愛しいことばをつむいでいた。
会場のだれよりも、全国へ進んだ学生よりも
瞳を輝かせて講評文をのべていた。


わたしはいつかこの人の創作現場を
もう一度覗きたい。
ごはんを食べたいといえばあってもらえる
とおもうけど、わたしが私のことばで
なにか紡げるようになってからあいたいと思う。





🐦️






●2022年3月5日(20歳)
おまもりみたいな言葉をくれた人を
思いきってごはんに誘ったらきてもらえた。

嬉しかった。
人をごはんに誘うのは初めてだった。


色々となんでもない話を用意していったけれど、
半分も喋れずこの先や仕事
(仕事というには拙い、でも私が主に行っていること。)
の相談や話をたくさんしてしまった。


でも散歩の話をしたし、
お互いが参加していた、
家族みたいに愛しい団体がくれた場所と時間の話もした。
思い返せば結構相手を遮って
しゃべりたおしてしまったきがするが、
すごくよく聞いてくれていたきがする。
うれしかった。
人が最も祝福される瞬間についての話をしてくれた。
歩いてみたい場所や時間の話もした。 


家族みたいに愛しい団体と
このひととは、
ほんとうにこの先何度も喋りたいと思う。
(自分をうんでくれた家族を
まだちゃんと愛せていないのに、
この比喩に家族を使うことに違和を感じるが、
ここは世間一般の清濁合わせたしあわせの
代名詞として、家族と例える。)

熱波師とネオン管職人をこころざし、
出たい実家に大好きな逆転裁判のゲームソフトを
置いてきてしまった、
去年の誕生日にお祝いをいただいてから
音沙汰のない彼女にももう一度あいたい。


食べきれないはっさくを渡そうと
袋に入れて持っていたけど渡さなかった。
着てらっしゃった服に刺繍された動物の置物を、
スミスキーの巾着の中に、
たまたまもっていたので渡した気がする。

🐕️


●2022年3月6日(20歳)
ひとつ前の項目の愛しい団体に所属している
女の子の出る芝居を観に行った日。


観に行くまでに散歩をし、
展示を見て
お煎餅を買い、
カレーを食べて
お出汁が香る車両に揺られ、
展示を見、
散歩して
芝居を観た。 
愛しい団体のお二人と、
この生活になった契機の団体さんの
お二人にもたまたま会った。
散歩をして家まで帰った。

観劇直後、設けられていたアフタートークが
始まるまでの3分程度の間に、思い立って
「泊まりに来ないか」と彼女にLINEした。

泊まりにきてくれた。
人を泊まりに来ないかと誘ったのは初めてだ。
最後の片付けをしていたらスマホをみてなくて 寒いだろう駅で十分ちょっと待たせてしまった。

お菓子をつまみながら、
将来の話と、私の話、彼女の話、
趣味ってなんだろう、
愛しい劇団をもっとよくするには。
彼女が家に来てから眠りにつくまで、
六時間くらいだろうか。話をした。

ありもので作った
夜ごはんのクリームシチューも
朝ごはんのコンソメスープと目玉焼きも
美味しいといって完食してくれた。
朝、ベットと二年かけて貯めた本を
いれたケースの隙間、半畳くらいで眠る彼女をベットに促し食べてほしいパンを買いにいった。

最初から最後まで会うことともてなすことを
どうしようと不安にならず
楽しいと思い続けながら過ごしたのは
この日が初めてだった。

私、人と会うことを楽しみ続けることが
出きるんだとこの二晩で知った。


わたしがやりたくてやっているので
なにも返してくれなくていい。
またあいたいなと
少しでも思ってもらえたらラッキー。



🦕


─────────────────────




2020年に出会った人が愛しすぎて
酔っていなくても涙を流してしまう時がよくある。
動画や写真をたびたび見返してしまう。
この愛しい人たち、
生き方や考え方とやりたいことに
気づかせてくれ温情をくれた私が受け取った
この人たちに恩を返せるよう、
今度こそ頑張ろうと思う。

進路を紆余曲折し、フリーターまがいな
ことをしていたくせにお金はそこまで
貯まらなかったこの人生の夏休みと
名付けている期間は今月で終わる。

選びとって、置いていくものは置いていって、
大人になろうと思う。

ずっと眺めさせてほしい
すきなひとたちみたいに
わたしもなりたい。


愛されることに慣れていない。
(高一の冬だか高二のときだか、
それで失敗をして人を傷つけた。)

すきなひとたちからもらったものを、
わたしのからだの中で育てて、
じぶんのこともすきになれたらいい。

散歩が好き。
少しずつ、自分の道もあるくこと。


🧠

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