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ノートルダムの鐘(1996) 「あの鐘を鳴らすのは」

全篇を通して哀愁と切なさが渦巻く異色作。鐘つき堂の中に囚われた「怪物」が、愛を知ってしまったが故に苦しみながらも、大きな一歩を踏み出す姿をアラン・メンケンの荘厳な楽曲に乗せて描く。巧みな演出とキャラクター描写によって、観た人に一歩踏み出す勇気と優しさを与える傑作です

この作品は、ディズニー映画好きにとっては特別な作品であることが多いイメージで、あの風間俊介さんも「音楽も映画も一番のお気に入り」として挙げているくらいです。風間さんは「差別や偏見を無くしたいという想いを確立してくれた」作品だと評していますが、まさにこれこそがこの作品が傑作たる所以。見た人の心を動かし、自分が主人公として行動を変えなければと思わせてくれる強さがある。物語を見せて終わるだけではなく、見た人に働けかけるほどの作品であることが、最大の魅力なのだと思います。実はこの作品には、そう思いたくなる仕掛けがたくさん詰まっています。今回は、演出とキャラクター設定の二つの視点から、それを深掘りしていきたいと思います。(今回は完全にネタバレですので、閲覧ご注意ください。)


まずは、演出です。「ノートルダムの鐘」を見て感じるのは、見ている人=私たちを徹底的に「観客」として、特に舞台の観客として扱っているということです。作品全体としては、一貫して舞台を意識したような演出がなされており、私たちは舞台上で繰り広げられる戯曲を楽しむ観客の立場で、作品を鑑賞することになります。

冒頭のシーン、幕開け前の暗転した状態から舞台が始まるかのごとく、真っ暗な画面の中で鐘の音がゆっくりと響きはじめ、叙々にその音を音楽に取り込みながら、オープニング楽曲である「ノートルダムの鐘」が始まります。この「暗転シーン」は冒頭以外でも、歌の終わりなど随所にはさみこまれ、場面転換の役割を果たします。そもそも今回の「語り」は怪しげなマスクをつけたキャラクター、クロパンによる人形劇。絵本の読み聞かせではなく、本作が「舞台劇」として演出されていることを一層印象付けています。この作品の音楽は一つ一つのクオリティが高く、名曲と名高いですが、使われ方としては、かなり露骨なミュージカル調。(フロローなんて歌った後ぶっ倒れますからね。)全体の演出を考えて、あえてこのような使われ方をしているのでしょう。ちなみに吹き替えに限りますが、ノートルダムの鐘の日本語吹き替えは全て当時の劇団四季メンバーによるもの。歌唱力も抜群ですが、こういった演出ともガッチリ噛み合った素晴らしいキャスティングだと思います。

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クロパンは、時折メタな存在として、観客に直接語りかけます。この時のカメラアングルは、常に彼を見上げる視点。私たちが舞台の下に居る観客であることを意識させられます。クロパンはまた、この作品の大きなテーマでもある「問いかけ」を発します。それは「怪物と人間、それを生み出すのは何か」と言うものです。(このテーマ、残念ながら吹き替え版ではやや曖昧になってしまっています。原語でははっきりと、"Who is the monster and who is the man "や"What makes a monster and what makes a man"といった歌詞で表されているのですが…。これを気にしたのか、同じ劇団四季訳でもミュージカル版ではこのテーマがよりはっきりと提示される翻訳がなされています。)果たして本当の怪物とは何か、人を怪物たらしめるのはなんなのか、それを観客に突きつけるのです。この問いに対しては、後述のキャラクター描写によって自然と伝わるようになっていますが、そのキャラクターへの視点の作り方もまた、見事に計算されています。小津安二郎のような、と言うと言い過ぎかもしれませんが、観客専用の視点が設けられるのです。基本的には、作品に登場する「観衆の視点」とリンクしていて、例えば主人公のカジモドを見るときは「客席から舞台を見上げる視点」のような下からややあおって見上げるような描写がなされます。わかりやすいのは、お祭りでカジモドを持て囃した後、野菜を投げつけたりするシーン。観客の視点は、作品中の「一般大衆」の目線であり、醜いカジモドに対して一緒にトマトを投げつけているような気持ちにさせられます。一方で、唐突に思い切り引いた俯瞰のショット、空から観客を見下ろしているような視点が挟み込まれることがあります。私たちは、物語的には大衆の視点に据えられながらも、時折それを冷静になって見つめるチャンスを与えられます。この二つの視点が、カジモドをいじめる当事者になりながら、その行為を省みて自分だったらどうするかを考える機会となっているのです。

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続いてはキャラクターです。ノートルダムの鐘のキャラクターは、それぞれがディズニー映画の中でも飛び抜けた個性を持っていて、重厚なテーマ設定に負けない存在感を放っています。まずは主人公のカジモド。彼の見た目は確かにショッキングですが、あらゆるディズニー作品の中でも、もっとも「優しい」人物として描かれます。孤独な塔に閉じ込められたと言う意味ではラプンツェルと似ていますが、条件はまるで違います。人里から隔離されたラプンツェルとは違い、塔の上から楽しく生きる人々を一方的に見下ろしながら、自分は醜い怪物なのだと育ての親から教えられ続けてきた人生。動物の友達すらおらず、鐘に名前をつけ、石像を空想の友達として話しかける孤独な毎日…。そんな彼の願いは1日だけでも外の世界で暮らすこと。彼が「僕の願い(Out There)」を高らかに歌えば歌うほど、切なさは募りますが、よりによってこの曲は数あるディズニー楽曲の中で最も美しい歌。こんな曲を作れるアラン・メンケンは、やはり天才です。カジモドは、そんな小さな願いを叶えるために一歩踏み出しますが、いきなり人間の醜い部分、フロローが教えていた通りの差別に晒されることになります。その後、初めてエスメラルダに「人間」として扱われ、愛を知るのですが、それゆえにさらに苦しむことになってしまうのです。ディズニーにおける愛といえば、出会うのは運命の相手であり、両思いは必然、いつまでも幸せに暮らすまでがセットですが、現実はそうとは限らない。いくら愛していたとしても、相手も同じように愛してくれる訳ではありません。その人が愛を与える相手は、自分だけとも限らないのです。愛ゆえに人は苦しみ、幸せとは程遠い感情を呼び起こすこともある、そんな愛のもつ残酷な一面を、本作は描いていると言えるでしょう

本作のヴィラン、フロロー判事もまた、独特な魅力を持ったキャラクターです。彼は、恐ろしげな黒い馬(おそらくディズニー映画で最も怖い馬)に乗り、情け容赦なく命を奪う悪役ですが、神の怒りを感じて行動を改めたり、マリア様に救いを求める歌を歌っているところから、ただの快楽殺人者ではなく、自分の中の「正義」に従って行動をしていることがわかります。自分の正義に従った行動なので、「罪ではない」と認識していたわけです。フロローは、自己の不遇な状況を打破し、何かを獲得しようとしているわけではなく、ただ街をより良くするために、自らの信じる正義に基づいて行動しているだけなのです。いつの世にも、自分の中の正義を基準にして、執拗に誰かを追い詰めることに快感を覚える人がいますが、その権化のようなキャラクターです。(昨今の自粛警察や、正義マンと呼ばれる人々は皆、フロローのような、自分の判断基準に照らして、裁きを与えることを是とした人々だと言えるかもしれません。)ところが彼もまた、愛によって大きく運命を変えられます。フロローは中盤でエスメラルダへの思いを「地獄の炎」と表現していますが、この詩的な愛の表現は非常にリアルで、愛の残酷な一面を捉えたものであるとも言えます。フロローはその後、理性を失い、抑えきれない衝動によって、自分の正義では説明がつかない暴走を始めます。この瞬間、彼は真の「怪物」へと変貌を遂げてしまうのです。ディズニーが常にテーマとしてきた「愛」を、怪物を生み出す原因としている所に、この作品の奥深さを感じることができます

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もちろん、フィーバス隊長とエスメラルダの描写にも隙はありません。フィーバスは、本来であれば主役級の存在。ヒロインを夢中にさせる様々な要素を兼ね備えた超人です。ラプンツェルのフリン・ライダーは、プリンス以上の理想的な男性として描写されていますが、フィーバスも彼に近しいものがあります。確固たる信念と柔軟さを兼ね備え、カジモドに対しても平等で真摯な対応をする様子を見ても、フィーバスを嫌いになる要素は皆無です。だからこそ、カジモドを苦しめるのですが…。ヒロインのエスメラルダは、魅惑的な風貌に、母性的な優しさと逆境に立ち向かう強さ、決して誰かの庇護下には置かれない自由な意志を兼ね備えたディズニー屈指の完璧な女性。カジモド、フィーバス、フロローの3人が、それぞれの理由で恋に落ちてしまうのも納得のキャラクター設定がされています。カジモドは目の前で、そんな完璧な二人が愛し合っていることに気づき、自分の初恋が破れていく様子を見せつけられます。よりによって、恋の歌を高らかに歌った直後に…。カジモドに対して、あまりにも残酷な演出ですが、それでも彼は、彼女への愛を失いません。彼の愛は、フロローのような「見返りを求める愛」ではないのです。欲望の大小はあれど、「相手に何かを求める心」はディズニー作品において、破滅への第一歩。人生と同じく、誰かに「もっとこうしてくれたらいいのに」と思ったところで、物事が好転することはないのです。


クライマックス、たった一人でエスメラルダを守ろうとするカジモドは、勇気と優しさを兼ね備えたヒーローそのもの。しかし、この物語のゴールは、彼をヒーローにすることではありません。彼の願いは、神に守られた「聖域」を出て、人と人との中、つまり「じんかん」で生きること。「人間」になることです。「人間になりたい」と言う願いは、ピノキオや美女と野獣など、ディズニー作品では頻繁に出てくるものですが、生物的にはすでに「人間」であるはずのカジモドが語ることで、改めて「人間とはなんなのか」と言う本質的な問いになっています。高い塔の上で、孤独に生きていた頃のカジモドは、本当の意味で「人間」ではなかったと言えるかもしれません。彼はエスメラルダと出会い、一時は人との繋がりの中に身を置きますが、最後に一転、エスメラルダとフィーバスの手を握らせると、自らはそっと身を引き、また孤独な存在に、暗闇の中に戻ろうとしてしまいます。それでもカジモドは最後の最後に、本当に「人間」になることができたのです。それはいつか。彼が世界が「暗く冷たい」ものでないことを本当に実感した瞬間、ラストシーンで「明るさ」と「温かさ」を感じた瞬間です。エスメラルダから差し伸べられた手を握り、日差しの中で眩しそうにしている仕草や、観客の一人であった少女が差し伸べた手の感触を確かめている様子は、人の繋がりの中にある「明るさ」と「温かさ」をしみじみと感じている象徴的な名シーン。カジモドの願いを叶えたのは、神でも魔法でもなく、一人の少女だったのです。ところでこれらはどちらも、人が与えてくれるもの。ここで、クロパンの問いかけ“What makes a monster and what makes a man”について考えると、「怪物」が自ら変貌を遂げるものであるのに対して、「人間」は他者によって規定されるものであると言うことができます。逆に言えば、欲望に囚われて他者を抑圧する人を「人間」と言うことはできず、見た目や出自だけで、人を「怪物」だと規定することもできないのです。冒頭は"Who is the monster and who is the man "であったクロパンの問いかけが、"What makes a monster and what makes a man"に変化しているのも、「誰が怪物で誰が人間か」と言う単純な考えでは捉えられない、それを規定する他者の存在が重要だからだと言えるかもしれません。ここにきて、「観衆の視点」が意識されていた理由が明らかになってくるのです。なんという構造的な伏線でしょうか!

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本作は、物語としてはハッピーエンドなのですが、最後の最後、カメラは大きく引き絵になり、カジモドを担ぐ群衆を映し出します。そう、この構図、先述した「観客に反省を促すショット」です。カジモドを担ぎ、彼に追従する群衆を見て何を感じろと言うのか。それは、私たちはあの群衆になってはいけないと言うことではないでしょうか。何も考えずカジモドにトマトをぶつけ、クロパンに煽られればカジモドを担ぎ上げるだけの、愚かな観衆には。だからこそエンディングテーマ「Someday」は歌います。

Someday, when we are wiser
When the world's older
When we have learned
I pray
Someday we may yet live
To live and let live

この曲はただのエンディングテーマではなく、紛れもなく「ノートルダムの鐘」と言う作品の一部を担っています。(なのになぜ映画ではエンディングに日本語字幕をつけていないのか…。Hunchbackを放送禁止用語として修正するのもいいですが、「人間と怪物」の訳も含めて作りの詰めが甘いのが非常に残念です。)この歌を聞いて思うのは、僕たちは単なる観客でいてはいけない、主人公にならなければいけないと言うことです。一人一人が主人公になって、より学び、賢くなって、世界を変える勇気と優しさを身につけなければならない。カジモドに一番最初に手を差し伸べる少女にならなければいけないのです。あの少女はたった一人で、自ら前に出て、カジモドに温もりを与えました。逆に言えば、たった一人でも、偏見や差別を超えて自ら一歩踏み出せば、誰かを救うことができるかも知れない。この作品は、見る人を徹底的に「観客扱い」することで、最終的に、自分が行動しなければいけないと言う強い思いを抱かせます。作者の正義を説教くさく押し付けるのではなく、観客に考えさせることで、より深く心に刻み込ませているのです。


他にも、神との関係やジプシーをどんな存在と捉えるかなど、まだまだ沢山の解釈の余地があると思います。単に見るだけでは終われないと言う意味では、確かに重めの作品かも知れませんが、それだけに、かけがえのない鑑賞になるのは間違いありません。見る時代によっても色々なことを感じさせる、何度も見直したい作品です。


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