彦坂尚嘉論(3)

美術の世界も、言論も、自己複製するイメージの増殖に飲み込まれているように見える。21世紀のライフスタイルが、絶え間なく起こる "出来事 "に圧倒され続けているのも、これのせいだ。

イメージの集まりは、わたしたちの眼の代理としての機能を果たしている。実際にその場にいなくても、どこぞの戦場を体験することができ、処刑の場に立ち会うことができる。誰かの、実在しているのかさえ怪しい性的な出会いを覗き見ることさえできる。

すべての者にスケベ・ドローンが賦与されているようなものである。日がな一日、正体不明のイメージを見て、「きもちー」とか「かなしー」等と唸ってる。今日においては、のぞき見スケベこそが、芸術の一丁目一番地と思いこまされている。

代理(者)として機能するということは、ちょうどロボットが寝たきりの老人を介護するのと同じように、マシンの生成したイメージが人間をコントロールしていることを意味する、のだろうか?


「Ghost in the Shell」に疑似体験という概念が登場する。

これは他人の脳にハッキングして、偽りの記憶を植えつける、というものだ。この被害に遭うと、被害者は無意識のうちに犯罪に手を貸し、自分が関与していることにすら気づかない。

ひとりの清掃員がこの犯罪の餌食となる。彼はインセルの、しがない清掃員でしかないが、疑似体験のなかでは、浮気している妻と生意気な娘と暮らしている、という空想の生活を送っている。

逮捕後もなお、頑なに自分は既婚者だと主張するが、しかし、刑事達に決定的な証拠をつきつけられて、固まってしまう、という一幕がある。


なぜ彼は”固まって”しまったのだろうか?

それは自身が仮想の自由の虜となっていたことを、刑事たちから告知されたからにほかならない。

ただこの話、もとから自分が自由であることを知らずに、そのまま疑似体験の奴隷でいたほうが幸せだったのではないか?という仮説の分岐を導くことも、いちおう可能だ。

またもし仮にだが、彼自身がこの自由を明晰夢を見ているかのように自覚できる段階が一瞬でもあったとするならば、サイエンスフィクションは白紙撤回というわけである。あらためていうまでもないことだが。


ここでいまひとつ問いたいこととは、イメージに、そのような真性な力があるのか?ということだ。

美術の世界には、特定のイメージに極度に影響を受けて、なにかの対象になりかわっているようなタイプのアーティストがいる(具体名を挙げるわけにはいかないが、女性のアーティストに多い)

だがしかし、彼ら・彼女らに、あの哀れな清掃員のようなシリアスさを見出せるのか?といえば(こう断言するのは申し訳なく思う)それはない。

薬物による幻覚作用にしろ、メンヘル感情にしろ、サブカルにしろ、陰謀論にしろ、そのイメージの世界にいくらふけったところで、主体は任意性のもとに目を醒ますことができる。完全に個性を消し去っているわけではない。


ちかごろ、アメリカがまた面白くなってきた。アメリカ人が望むのは快楽の大量生産による麻痺=”気晴らし”である。そのような、自分らを麻痺させてくれる階級の存在、待望論。

前回の大統領選以降、陰謀論が惑星規模で蔓延した、現にしているのは、まず第一に、前提として、アメリカ人が自分たちこそが地球上でもっとも正しいと思い込んでいるからにほかならない。そして口々に「もう知識人はいらない、専門家はいらない」と宣う、あの件の現象...

もし、すべての人間が政治(および、アート)に熱中しているのならば、わたしのこの推定はさほど外れないだろう。

SNSにあまねく住み着いている陰謀論者たちは、まあどうだろう、自身の主張、および彼らが支持している論者のことを陰謀論だとはけっして認めない。彼らの目前で洗脳の一語を口にするのはきわめて危険な行為である。


彦坂が2020年のパンデミックから数年のあいだ、しばしば(芸術)「統制」と言っていたのは、このような事情に根ざしているように思われる。

もっとも彼の政治的スタンスは単純に左翼とカテゴライズすることもできない独特の「わからなさ」がある。

<続>

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