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お念仏と読書#3 いのちの見方


3回目となる今回は、福岡伸一さんの『最後の講義 完全版 どうして生命にそんなに価値があるのか』を読んで、内容を少し紹介します。そして仏教の「いのちの見方」について味わってみたいと思います。

「あなたは人生最後の日に何を語りますか」?
NHK BSで放送され、大反響をよんだ「最後の講義」が、本になってよみがえりました。

まず、「人生最後の講義であったとしたら?」何を語るのかというのが、とても興味深いです。
人生最後だと思えたら、私達はその時初めて、一番「伝えたい人」に、一番「伝えたいこと」を、一番相手に「伝わるように」語るのかもしれません。
福岡さんの本は何冊か読みましたが、科学や生物に無知な私にとって、この本が一番読みやすく、ぐっと心に入ってきました。

「AIが人間の知性を超えることはあり得ない」「“昨日の私”と“今日の私”は少しだけ入れ替わっている」…各界の偉人が登場した話題の番組「最後の講義」(NHK)未放送分を含む完全書籍化!“動的平衡”を提唱する生物学者が語る。

「生命とは何か?」この問いは、少年時代の福岡さんの素朴な問いかけであると同時に、生物学最大の謎でもあると言われます。人類として文化を作り始めて以来問いかけてきた、哲学的、芸術的な問いなのです。まさしくそれは宗教的な問いでもあると私は思いました。

生命について2つの見方

生物学においては、まず科学の発達とともに、生物を細かくミクロな世界に分け、分析的に物を考えていくようになります。
それを端的に表すのが「メカニズム」という言葉です。
「メカ」とは、機械という意味なので、私達の身体を「機械仕掛け」だと考えているのです。
機械だと思うから、「上手く捜査してやれば、もっと効率がある。」と考えて、遺伝子操作・組み換えや遺伝子治療が行うことができるのでしょう。

それに対してもう一つの見方があります。それが「動的平衡」と福岡さん名付け提唱される見方です。
早逝の生物学者ルドルフ・シェーンハイマーの「生命は機械ではない。流れだ」という考え方に深く感銘を受け名付けられました。
それは私たちが「生きる」ということは、機械仕掛けのミクロなパーツが集まっているのではなく、そのパーツと思われる物自体が、常に流動的に作り替えられているのです。自分の身体は部品のような個体ではなく、絶え間なく流れている流体で、常にバランスを取りながら動いているのだと言われます。この「動的平衡」という生命の見方こそ、福岡さんが生涯取り組まれている研究であり、人生最後の授業で伝えたかったことなのです。

すべてつながりのある生命
また、この本を読んでいて、私の生命とは、私単独で存在できるのもではなくて、自分以外の全ての生命や環境と繋がり合って、常に流動的に変化し続けてかりそめにあるものなのだと知らされました。この本で譬えられているのが、自動車と人間の違い。
人間がご飯を食べるということは、自動車にガソリンを注ぎ込むのとは違って、自分自身の身体を常に入れ替え、作り替えているということなのだと言われます。

生物の体の中では、食べ物の原子や分子がいろいろなところに散らばって、常に体の一部に成り代わっていたのです。

これは車でいえば、注ぎ込んだガソリンは燃やされるだけでなく、タイヤの一部になったり、ねじの一部になったり、つまり車全ての一部になっていくということ。そんなことは有り得ないですよね。

だから、生命には「部品」や「部分」というものがなく、操作したり介入できるものではないということでした。

「生命とは何か?」という問いの答えは、「生命をどう定義するか」によって見方が変わってきます。だから、「生命は動的平衡である」という私の定義から見たら、細胞も生命だし、細胞と細胞の集合体である私たちも生命だし、個人で集まっている人間社会も生命体だし、人間と他の生物との相互作用で成り立っている地球全体も一つの生命体だという境界線は膨らんだり縮んだりします。動的平衡の観点から見ると、地球全体も一個の生命体だというふうに考えて差し支えないと私は思います。

ところで、皆さんはゴキブリは好きですか?
大好きだという方は滅多にいないのではないでしょうか。すぐに叩き潰そうとするのではないでしょうか?「気持ち悪い」「不潔だ」「ゴキブリなんかこの世からいなくなれば良い」と正直思いますよね。私もそうです。

しかし、福岡さんは言われるのです。「ゴキブリが世界から消えてしまったら、地球は滅亡する!」「ゴキブリは掃除屋さんだ!」と。
実はゴキブリの大半は熱帯雨林にいるのです。アマゾンの森の下草あたりに生息していて、枯れ草や昆虫、動物の死骸を食べ、分解して土に戻す仕事をゴキブリはせっせとしているのです。
だから、ゴキブリが生態系からいなくなったら、たちまちゴミが地球上に溜まってしまうのです。
福岡さんにそう言われて私はビックリしました。
今日から、地球の掃除屋さんであるゴキブリに手を合わせて感謝しないといけませんね!

…と言われても、流石になかなかできませんよね。それは私がゴキブリと自分を別のもの、別の生命と、つながりを無視して、自分にとって都合の悪い「害虫」と思っているからなのです。

お釈迦様のいのちの見方
仏教を説かれたお釈迦様は「おさとり」を開かれて、あるがままにものごとを見ていかれました。それはすべてのいのちは繋がり合って存在している、自分と関係のないいのち一つないという事実です。
お釈迦様は、人間だけではなく、他の動物にも「あなたと私は別ではない」「ともよ」と語りかけられ、同じように接していかれたといわれます。
だから、お釈迦様のご入滅には、お弟子方だけではなく、象や鳥や魚、また人間から害虫と嫌われるムカデまでが集まったということが「涅槃図」に描かれます。

花祭り2

(娘が描いた阿弥陀仏という仏様の絵。阿弥陀様は、すべてのいのちをさとりに目覚めさせなければ、私は仏とはなりませんとまで誓われました。

実は私と関係のない、つながりのないいのちは一つもありません。しかし、私はどこまでも自分と他のいのちとを区別して、どこまでも自分の都合でいのちを裁いてみています。
いのちを機械仕掛けと勘違いし、自分の都合で良い部品はいつまでもあってほしい、悪い部品はとってしまえと思うようなものです。それは本当は自分で自分の生命を削っていくような見方です。しかし、私はそうとしかみえません。

いのちは部品ではなく、流れでありつながりという「動的平衡」の見方は、私にとっては仏教と通じるように感じ、とても大切な視点と味あわせていただきました。


最後までお聴聞下さり、有難うございました。南無阿弥陀仏。



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