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お念仏と読書21『ヘレヘレじいさん』

『ブータンで本当の幸せについて考えてみました。「足るを知る」と経済成長は両立するのだろうか?』本林靖久・遠藤智樹(光文社新書)を読みました。
GNH(国民総幸福量)を提唱するブータンについて書かれてあり、読むと「本当の幸せ」とは何なのかを考えずにはおられなくなる本です。

その中で大変興味深い民話、昔話に出あいました。その主人公の名を「ヘレヘレじいさん」というのです。
ブータン人の生き方を見ていく中で、多くの人がヘレヘレじいさんのように生きたいというんだそうです。

村に一人暮らしをしているおじいさんがいて、たまたま畑を掘っていたら、切り株からトルコ石が出てきた。これを市場に持って行こうと思うのです。
そしてテクテクと歩いているうちに村人がやってきて、物々交換をしていくのです。

この物語は、日本の昔話「わらしべ長者」に似ている思いました。最初はワラだけを持っていたが物々交換をしていくにつれて、最後には御殿を手に入れて大金持ちになるというお話です。

なんとヘレヘレじいさんはわらしべ長者と反対で、どんどん小さなものと交換していくのです。

最後に楽しそうに自分の人生を歌にして歌っている人がやってきて、その人と交換することになります。ヘレヘレじいさんが、とても嬉しそうなので「何でそんなに喜んでいるのか?」と歌を歌う人が聞くと、「いや、実は聞いておくれよ。畑からトルコ石が出てきて、それを馬に換えたんだよ。その次が老いた牛に換えて、羊に換えて、そして鶏になった。で、お前が今歌っているその歌とこの鶏を交換してくれないか」と言うんです。

その鶏をあげて、手ぶらになったヘレヘレじいさんは彼が歌っている歌を歌いながら、家に帰るのです。
しかし、なんとこれで終わるのではないのです。最後のオチは、歩いている最中に転んで歌まで忘れてしまう。結局最後には何も残らなかったというお話なのです。

一見すると、「何それ?」という話なのですが、私たちの幸せとは何か?深く考えさせてくれます。
私は、このお話は困っている人に惜しみなく施していくということ、仏教でいう「布施」の心を表していると思うのです。

同じ物々交換ではあるのですが、わらしべ長者は自分のために交換します。確かにどんどん自分の欲しいものを手に入れることは嬉しいことで、大事なことです。しかし、その先に本当の幸せがあるのかどうかは疑問です。より自分の欲を増長させたり、人と比べることが多くなったり、また、失われることの恐怖感が増えたりするのではないでしょうか。

仏教で説かれる「布施」とは、相手に施すことで、執着を手放すことの大切さを教えてくれます。なぜなら私たちの苦しみは、自らの執着の心から生まれるからです。

ヘレヘレじいさんの物語は、仏教が尊ばれるブータンだからこそ生まれたお話だと思います。ブータンでは国教が仏教と定められており、人々の中に仏様の教えが生きているのです。
この物語を読んで私は本当に吃驚しました。ヘレヘレじいさん凄いです。日本にはないお話だと思います。あえて言うならば、少しバカボンのパパに似ていると思いました。

同時に自分が恥ずかしく感じました。なぜなら、どんなに執着が苦しみの根源と分かっていても、手離すことのできない我が身だからです。家族、健康、お金、どれをとっても自分中心で、日々執着せずには生きておられません。

仏教は仏様のお心が説かれた教えです。そのお心とは、慈悲といわれます。
慈悲とは「抜苦与楽」。苦しみを抜き、楽を与えることです。
限りなく相手の立場にたって、相手の苦しみを抜く「慈しみの心」と、その人の苦悩を共感してまことの幸せ安らぎを与えぬく「悲しみの心」のことです。

ヘレヘレじいさんは、相手の持っているものをいただき、自分の持つより良いものを惜しみなく与えていきました。同じように、阿弥陀という仏様は私たちの苦しみを「私にもその苦悩を抱えさせてくれ」と取り上げて背負って、「執着から抜けられないあなたこそ私は放っておけない」「あなたを救いたい」という自ら願いを与えてくださるのです。

そう思うと、ヘレヘレじいさんは大きな慈悲の心の阿弥陀様のことではないかと、ふと感じたのです。

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